「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実—教育社会学者の竹内洋を事例にして—

1. はじめに—今なぜ「能力主義」教育による「ハイ・タレント」の現実か?—

     

     本稿は1960年代の「マンパワー・ポリシー」以降の「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実を、京都大学(大学院)卒の教育社会学者の事例に考えるものである。

     1948年、国連が採択した世界人権宣言の第1条では、次のように普遍主義的「人間」観が提示されている。

     

     「すべての人間(All human beings)は、生まれながらに自由で尊厳と諸権利の点で平等である(born free and equal in dignity and rights)。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない」[1]

     

     1946年に公布され翌年施行された日本国憲法の第26条では、「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定されている(しかし、教育学者による「ひとしく」の解釈には、対立、分裂もある)。

     1947年に制定された旧教育基本法の第3条では、「教育の機会均等」の分配基準は「能力」と規定され、それは現在の新教育基本法でも同様である。ここから教育機会の分配基準としての「能力主義」は、「公正」とも評価されて来た。

     他方、1967年に博士論文(1962/1963/1971年)以来、「能力主義」の「学校」「教育」への適用を批判して来た堀尾輝久は、大学における「教養」をめぐる問題を、人間の「専門閉塞」による「部分人」化、「対話の不可能」化、「知識を統一する主体の欠如」化と捉えて、「人間の危機」として批判した[2]

     また、2001年、日本カトリック司教団は『いのちへのまなざし』で、当時の日本社会を、「愛」の喪失が、精神の枯渇や人間関係の崩壊、社会の活力の喪失、喜びの無い重苦しさ原因になっていると指摘した。

     その上で同司教団は、「学歴」、「社会的な地位」、「業績」等の「能力」を中心にした「人間の評価基準」を批判し、「愛」を基礎にした「人格」尊重を重視した[3]

     堀尾と同司教団は共に「能力主義」(教育)を批判したが、両者とも「能力主義」(教育)による「ハイ・タレント」養成の現実を、具体的な事例を挙げて検討していない。

     2023年、筆者も「能力主義」による国際人権基準の「人間」と「教育」の解体の証明は今後の課題とした[4]

     そこで本稿では、「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実を、教育社会学者である竹内洋の研究活動の検討を通して考える。竹内とは、教育政策にも影響を与える中央教育審議会臨時専門員等を歴任した所謂「エリート(選良)」であり、「能力主義」の支持者でもある。なお敬称は省略する。

    2. 1960年代以降における「マンパワー・ポリシー」の「ハイ・タレント」養成の現実—「人間(性)」解体に着目して—

     1963年、経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出され、「能力主義」の徹底化が提唱された。「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成が重視され、その後、「マンパワー・ポリシー」が展開された。

     後期中等教育の「ユニバーサル化」後の1974年、日教組教育制度委員会報告書は、「(受験)能力主義」教育による「人間」と「教育」の解体を批判した。

     「能力主義こそは、今日の教育荒廃の元凶、教育諸悪の根源というべきである。一方で、この体制のもとでは、いわゆるハイ・タレントの「すぐれた能力」そのものをも、いびつなものに転化し、知的エリートの人間性破壊が同時に進行していることが指摘されなければならない。あまたの友人をおしのけて、登竜門を通過することに成功したエリートたちが、いかにゆたかな感情を欠き、官僚的で偏狭で非合理な冷たさを露呈するのかは、その実例に乏しくない」[5]

     

     しかし、同報告書はその「実例」を具体的に挙げなかった。

     1995年、テロリズムであるオウム真理教事件が発生した。同事件後の1998年、世界的な経済学者であり、ヨハネ・パウロ二世のアドバイザーも歴任した宇沢弘文は、「日本における学校教育制度=全般的危機」説を提示した。

     「日本社会のおかれている状況は、その深刻さ、及ぼす範囲の広さという点から、ヴェトナム戦争下のアメリカ社会に比較する術もありません。しかし、日本の経済・社会を構成する基本的なファイバーの中心がぼろぼろになって、倫理的規範が崩壊し、社会的靱帯が損壊しつつあるのではないかという危惧をもたざるを得ません。このことは、日本における学校教育制度の全般的危機となって現れています」[6]

     しかし宇沢も、「学校教育制度の全般的危機」として現れた、日本社会の「倫理的規範」の崩壊と「社会的靱帯」の損壊を、具体的事例を挙げて検討しなかった。

    3. 竹内洋とは?

     竹内の略歴を、『竹内洋 経歴と著作目録』(京大大学院教育学研究科教育社会学研究室、2005年)を参照して概観する。

     竹内は「東京都出身」と自称することもあるが、戦中の1942年、新潟県加茂村(佐渡島)出身。1960年、新潟県立両津高校卒業、1961年、京大教育学部入学、1965年、同卒業。

     2年のブランクの後、1967年、京大大学院教育学研究科修士課程(教育方法専攻)入学。しかし、ブランク期の経歴は記載されていない。1970年、同博士課程進学、1973年、同課程単位取得退学。

     1973年、関西大学社会学部専任講師、1985年、京大教育学部助教授(教育社会学)、1993年、同教授、1994年、京大博士(教育学)、1998年~2001年、同大学大学院教育学研究科・教育学部長。

     1997年~2001年、京大評議員、1999年~2001年、日本教育社会学学会会長、2001年~2002年、中央教育審議会臨時専門員、同年~2004年、大学設置・学校法人審議会専門委員、2002年、日本学術振興会・科学研究費委員会専門委員、2004年~2005年、河村健夫文部科学大臣主宰「これからの教育を語る懇談会」委員等々。

    4. 竹内洋の「能力主義」研究の概要

     竹内の「能力主義」研究の概要を、彼の『選抜社会―試験・昇進をめぐる<加熱>と<冷却>―』(メディアファクトリー、1988年)を参照して確認する。

     1900年代~1910年代、クエーカー新渡戸稲造は第一高等学校と東京帝国大学で、“to be”と“to do”の選択を説き、“to be”を第一義、“to do”を第二義とした。“to be”は、新渡戸の「教養」思想の中心であった。

     竹内が高校を卒業し、恐らく浪人中だった1960年、丸山眞男は『日本の思想』で「であること(“to be”)」と「すること(“to do”)」の価値転倒を批判し、その再転倒を主張した。

     1988年、日本の「教養」思想の伝統に対し竹内は「なんであるか(“to be”)」を「属性」主義と解釈し、「何ができるか(“to do”)」を「能力主義」や「実力主義」としての「業績」主義と解釈した。

     竹内は「能力主義」による入試の不合格者は「不満」や「失敗感」を沈殿させるので「慰め」としての「冷却」の手段が必要であり、その一つは彼等に一種の「価値の転倒」を提示する「現行の入試制度批判」という形態を取ると主張した。

     このような入試は、当然合格しなかったものに不満や失敗感を沈殿させるから、これを放出し、緩和する手段が必要である。それが「冷却」(なぐさめ)である。「冷却」はいろいろなかたちをとりうるが(中略)しばしば現行の入試制度批判というかたちをとる[7]

     この「冷却=慰め」仮説に、竹内の「能力主義(メリトクラシー)」研究のポイントがあると考えられる。恐らく竹内の博士論文(1994年)も、この延長線上にある。

    5. 竹内洋の「学生文化」研究—ブルデュー「ハビトゥス」説の受容と展開—

    (1)ブルデューの「ハビトゥス」説とは?

     ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」説を、彼の『実践感覚』第1巻(みすず書房、1988年。原書は1980年)を参照して確認する。

     ブルデューは現代フランスを代表する社会学者で、「ブルデュー社会学」は「超領域的人間学」とも称される。日本では彼は「文化的再生産」論の提唱者として知られている。

     ブルデューによれば、「ハビトゥス」とは「持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステム」であり、「構造化する構造」つまり「実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造」である。

     また、ブルデューによれば、「ハビトゥス」とは「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけ」によって「生産」される。

     ブルデューの「ハビトゥス」説によれば、“to be”や“to do”も「心的諸傾向のシステム」としての「ハビトゥス」による「実践と表象」であることになる。

    (2)ブルデュー「ハビトゥス」説の受容—理解の不正確さ—

     竹内のブルデュー「ハビトゥス」説の受容を、彼の論文「キャンパスの“金魂巻“」(『大学進学研究』第70号、1990年)を手掛かりに確認する。

     竹内は、「ハビトゥス」を「あの人は上品だとか田舎者だ」と言う場合の「行為の基礎にあるシステム」であり、「状態や慣習」でもあると解釈した。

     しかし、「ハビトゥス」とは、単なる「行為」や「実践」のシステムではなく、「持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステム」であり、「実践と表象の産出・組織の原理」でもある。

     ここから竹内は、ブルデューの「ハビトゥス」を正確に理解していなかったことが確認出来る。 

    (3)「ハビトゥス」説の展開—日本の「学生文化」研究への適用—

     竹内のブルデュー「ハビトゥス」説の展開を、日本の「学生文化」研究への適用を中心に、「キャンスの“金魂巻“」を参照して確認する。

     フランスと日本では文脈に差異があり、フランス型「文化的再生産」は現代日本には直接妥当しない。竹内もその点を認識していた。そこから竹内はそれを現代日本にも適用出来るように、以下のようにアレンジした。

    1. 「ダサイ文化」と「洗練された文化」

     「たとえば地方の公立高校では模擬試験の成績発表で一番にのるのがかっこいいかもしれない。やや事態を漫画化していえば、読書といえばデル単、シケ単の世界だったかもしれない。都会の有名私立高校では音楽や文学などのそれもかなりマイナーな作品の鑑賞力が競われたりする。つまり前者はダサイ文化であり、後者はソフィスティケートされた文化である。私立のミッション系の高校と公立高校ではこれまた文化が異なっている」[8]

     竹内は「私立ミッション系高校」と「公立高校」の文化的差異を指摘するが、「エビデンス(科学的根拠)」を全く提示していない。

     b. 「東京の山の手育ち」等の「都会人」と「田舎者」

     「さらに育った地域もハビタゥス形成にかかわる。東京の山の手育ちと、わたくしのように新潟県佐渡育ちとでは、都会人と田舎者でこれは最初からセンスが異なっている。(中略)(私立・都会出身と公立・地方出身では――引用者による注)それこそお互いに「世界が違う」ということになってしまう」[9]

     

     竹内は「東京の山の手育ち」の「山の手」を概念規定せずに使用している。従って、「山の手」概念が適用出来る東京都の地域も明確ではない。恐らく竹内の「山の手」観は、「客観的真理」(ユネスコ憲章)ではなく、竹内の「イメージ」である。そうすると、竹内の「イメージ」は、彼自身の「ハビトゥス」によって生産された主観的な「表象」であることになる。

     c. <大学の悲喜劇と文化葛藤の各論=「おもしろい」(竹内のハビトゥス)>

     「むろん大学そのものがあらたなハビタゥスを形成するが、いずれも過去のハビタゥスという土壌のもとカレッジ・ソシアリゼーション(大学での人間形成)がなされる。こうして、いかにも立教卒のような人がいる反面、エッそれでも立教という人もでることになる。こうしたキャンパスのストレートならざる人間形成、あるいは悲喜劇と文化葛藤の各論はおもしろいのだが、もはや紙数は尽きた。道具をそろえたので読者の読みを期待してひとまず筆を擱くことにする」[10]

     竹内は<大学の悲喜劇と文化葛藤の各論=「おもしろい」>と発想した。

     また、竹内は「立教卒」内差異を指摘するが、エビデンスを全く提示していない。そうすると竹内の「立教卒」観も彼の「イメージ」であり、彼自身の「ハビトゥス」が生産した主観的「表象」であることになる。

      「キャンパスのストレートならざる人間形成」は、「悲喜劇と文化葛藤の各論はおもしろい」という「表象と実践」も、竹内自身の「ハビトゥス」によって生産されたものである。

     

    6. 竹内洋の「学生文化」研究—対象への「自己投影」―

    (1)心理学の「自己投影」説とは?

     心理学の「自己投影」説を、ユング派精神分析家の河合隼雄の『ユング心理学入門』(培風社、1967年)を参照して確認する。

     河合によれば、「投影」とは自らの「影」を「実在しているひとのなかに探す」ことである。「影」の内容とは、「その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が容認しがたいとしている心的内容」であり、それは「そのひとの暗い影の部分」を意味する。

     河合によれば、「自分の周囲にあって、何となくきらいなひとや、平素はうまくいくのに、ある点でだけむやみと腹が立つようなとき、それらは自分が無意識内にもっている欠点ではないかと考えてみると、思い当たることが大いに違いない」。

     しかし、河合は「影」の自我への統合は、「自分で今まで気づいていなかった欠点や否定的な面」を意識化することで、「そのなかに肯定的なものを見出し、生きていこうとする過程は予想外に苦しい」と言う。

     河合によれば、何等かの方法で無意識内の「影」を抑圧して自らの「影」の意識化を回避し、抑圧が余りに強過ぎ、自我と「影」の交流が過度に少な過ぎれば、「影はより暗く、より強くなり、自我への反逆を企てることになる」。

    (2)小説の主人公への「自己投影」—中野孝次『麦熟るる日』、『苦い夏』—

     

     1991年、竹内は「教養」思想と「教養主義」を区別せず同一視した上で、近代日本の学歴エリートは「うさん臭いプチブル」であり、エビデンスを提示せずに「教養主義」を次のように「差異化戦略」と断定した。

     「教養主義を知識あるいは真理への無垢な志向とだけみるのは余りにも単純である。(中略)近代日本の正統なる学歴エリートそれ自体うさん臭い存在(プチブル)だった。慇懃の戦略ではなく、差異化戦略が行使されなければならなかった。(中略)専検出身者は、高等教育=社会的上昇という切符を得た代償に教養主義の暴力の恰好の餌食に選ばれてしまったのである」[11]

     「専検出身者」とは、正統ではない学歴エリートである。その際、竹内が参照している資料は、中野孝次の自伝的小説『麦熟るる日』と『苦い夏』である(前掲「キャンパスの“金魂巻“」。同『立身・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年。2015年、同書は「講談社学術文庫」化された)。

     自伝的小説であるので、第一次資料でも第二次資料でもない。しかし、竹内は資料批判も全くせず、それらを第一次資料として使用している。その資料の使用方法は、「科学」、「学術」、「学問」と評価するのは難しい。

    (3) 対象へ「自己投影」した「影」と自我との交流—「プチ教養主義者」の意識化—

     

     2003年、竹内は無意識内の自らの「影」と交流し、「教養主義」批判を対象への「自己投影」と認め始めた。

     「いまからふりかえれば、わたしを含めたプチ教養主義者の教養崇拝は、教養主義的教養癖のきらいもあった。もっといえば、動機のかなりは不純さえあったかもしれない。大半のプチ教養主義者は、散漫な知識を寄せ集めるニーチェのいう教養俗物(『反時代的考察』)のようなものであったことは否めない。私の大学時代はサルトルブームだったが、いま考えれば作品の中身を本当に理解していたかどうか、怪しい。まあ、ほとんど理解していなかったのではないだろうか。それでも時流にのり、実存哲学を振り回し、哲学青年や文学青年を気取ったものである」[12]

     次の三点が確認出来る。

     ①「教養主義」者=「プチ教養主義者」=竹内。

     ②「うさん臭い存在(プチブル)」=かなり動機の不純な「散漫な知識を寄せ集める」「教養俗物」=竹内。

     ③「差異化戦略」の行使=不純な動機により「実存哲学を振り回し、哲学青年や文学青年を気取った」京大生=竹内。

     以上により竹内は、「教育社会学研究」において対象に「自己投影」させたことを確認出来る。そうすると竹内は、中野の小説の主人公に「自己投影」の対象を探し出した為に、「理性」による主/客、自/他等の識別が困難化し、「リアリティ」や「実感」を「客観的真理」と「誤認」して同一視したことになる。

    7. おわりに―「能力主義」教育による普遍主義的「人間」の危機―

    (1)結論

     世界人権宣言が提示した普遍主義的「人間」観とは、主/客、自/他等を識別する「理性」、善/悪を質別する「良心」、共生/共存を可能にする「友愛の精神」を持つ人間存在である。

     竹内は、対象に「自己投影」させ、「理性」によって主/客、自/他を識別出来なくなっていた。また、竹内は「いかにも立教卒のような人がいる反面、エッそれでも立教という人もでること」を「おもしろい」と発想した。

    「友愛の精神」の「友愛」とは、英語の”brotherhood”である。『リーダーズ英和辞典(第3版)』によれば、”brotherhood”とは「仲間であること」、「連帯」等である。しかし、竹内には「友愛の精神」は確認出来なかった。

     以上から竹内を事例に検討した「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実とは、「人間」の危機を意味した。

     しかし、竹内には膨大な著作があり、竹内全体が「人間」の危機に陥ったことは証明していない。また、事例がまだ少ないので、「ハイ・タレント」全体が「人間」の危機に陥ったことも証明していない。

     竹内の「ハイ・タレント」全体の代表性の問題がある。代表性を確認するには、他の「ハイ・タレント」も検討する必要がある。しかし、今後の課題とする。

    (2)含意

     1967年、堀尾は大学の「教養」をめぐる問題として「専門閉塞」を指摘したが、しかし遅くとも1990年代以降、「専門」は「対象への『自己投影』」により非「科学」化されていた。それは「客観的真理」の「(準)主観」への解消でもあった。

     その結果、1967年に堀尾が批判した「専門閉塞」は、「非『専門』閉塞」へ後退し、大学の「教養」をめぐる問題はより一層深刻化した。それにより「人間」の危機もより一層深刻化したと考えられる。

     結論の含意とは、①「第二次ベビー・ブーマー」前後の世代の大学進学、②同世代の「教員」採用による大学の急速な「大衆化」により、大学の「教養」をめぐる問題は一層深刻化し、大学は急速にレベルダウンし、現在に至ることである。


    [1] https://www.un.org/en/about-us/universal-declaration-of-human-rights(2024年8月15日アクセス) 私訳。

    [2] 堀尾輝久「国民教育における『教養』をめぐる問題」、『思想』第522号、岩波書店、1967年12月、pp.1、14。

    [3] 日本カトリック司教団『いのちへのまなざし―二十一世紀への司教団メッセージ―』カトリック中央協議会、2001年、p.9、20。

    [4] 金子聡「シェア可能な『世界人権宣言』を手掛かりに確認する―『能力主義』が解体した『人間』と『教育』とは何か―」、本誌第329号、2023年8月31日。

    [5] 教育制度検討委員会+梅根悟編『日本の教育改革を求めて』勁草書房、1974年、pp.82~83。

    [6] 宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年、pp.2~3。

    [7] 竹内洋『選抜社会―試験・昇進をめぐる<加熱>と<冷却>―』メディアファクトリー、1988年、p.67。

    [8] 竹内洋「キャンパスの“金魂巻“」、『大学進学研究』第70号、1990年、p.14。

    [9] 同上書、同頁。

    [10] 同上書、p.15。

    [11] 竹内洋『立身・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年、pp.165~166。

    [12] 竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化―』中公新書、2003年、p.24。

    福音と社会

    「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実

    ―教育社会学者の竹内洋を事例にして―

    文/教育学研究者 金子 聡

    1. はじめに—今なぜ「能力主義」教育による「ハイ・タレント」の現実か?—

     本稿は1960年代の「マンパワー・ポリシー」以降の「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実を、京都大学(大学院)卒の教育社会学者の事例に考えるものである。

     1948年、国連が採択した世界人権宣言の第1条では、次のように普遍主義的「人間」観が提示されている。

    すべての人間(All human beings)は、生まれながらに自由で尊厳と諸権利の点で平等である(born free and equal in dignity and rights)。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない[1]

    1946年に公布され翌年施行された日本国憲法の第26条では、「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定されている(しかし、教育学者による「ひとしく」の解釈には、対立、分裂もある)。

    1947年に制定された旧教育基本法の第3条では、「教育の機会均等」の分配基準は「能力」と規定され、それは現在の新教育基本法でも同様である。ここから教育機会の分配基準としての「能力主義」は、「公正」とも評価されて来た。

    他方、1967年に博士論文(1962/1963/1971年)以来、「能力主義」の「学校」「教育」への適用を批判して来た堀尾輝久は、大学における「教養」をめぐる問題を、人間の「専門閉塞」による「部分人」化、「対話の不可能」化、「知識を統一する主体の欠如」化と捉えて、「人間の危機」として批判した[2]

    また、2001年、日本カトリック司教団は『いのちへのまなざし』で、当時の日本社会を、「愛」の喪失が、精神の枯渇や人間関係の崩壊、社会の活力の喪失、喜びの無い重苦しさ原因になっていると指摘した。

    その上で同司教団は、「学歴」、「社会的な地位」、「業績」等の「能力」を中心にした「人間の評価基準」を批判し、「愛」を基礎にした「人格」尊重を重視した[3]

    堀尾と同司教団は共に「能力主義」(教育)を批判したが、両者とも「能力主義」(教育)による「ハイ・タレント」養成の現実を、具体的な事例を挙げて検討していない。

    2023年、筆者も「能力主義」による国際人権基準の「人間」と「教育」の解体の証明は今後の課題とした[4]

    そこで本稿では、「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実を、教育社会学者である竹内洋の研究活動の検討を通して考える。竹内とは、教育政策にも影響を与える中央教育審議会臨時専門員等を歴任した所謂「エリート(選良)」であり、「能力主義」の支持者でもある。なお敬称は省略する。

    • 1960年代以降における「マンパワー・ポリシー」の「ハイ・タレント」養成の現実—「人間(性)」解体に着目して—

    1963年、経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出され、「能力主義」の徹底化が提唱された。「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成が重視され、その後、「マンパワー・ポリシー」が展開された。

    後期中等教育の「ユニバーサル化」後の1974年、日教組教育制度委員会報告書は、「(受験)能力主義」教育による「人間」と「教育」の解体を批判した。

    能力主義こそは、今日の教育荒廃の元凶、教育諸悪の根源というべきである。一方で、この体制のもとでは、いわゆるハイ・タレントの「すぐれた能力」そのものをも、いびつなものに転化し、知的エリートの人間性破壊が同時に進行していることが指摘されなければならない。あまたの友人をおしのけて、登竜門を通過することに成功したエリートたちが、いかにゆたかな感情を欠き、官僚的で偏狭で非合理な冷たさを露呈するのかは、その実例に乏しくない[5]

     

    しかし、同報告書はその「実例」を具体的に挙げなかった。

     1995年、テロリズムであるオウム真理教事件が発生した。同事件後の1998年、世界的な経済学者であり、ヨハネ・パウロ二世のアドバイザーも歴任した宇沢弘文は、「日本における学校教育制度=全般的危機」説を提示した。

    日本社会のおかれている状況は、その深刻さ、及ぼす範囲の広さという点から、ヴェトナム戦争下のアメリカ社会に比較する術もありません。しかし、日本の経済・社会を構成する基本的なファイバーの中心がぼろぼろになって、倫理的規範が崩壊し、社会的靱帯が損壊しつつあるのではないかという危惧をもたざるを得ません。このことは、日本における学校教育制度の全般的危機となって現れています[6]

     しかし宇沢も、「学校教育制度の全般的危機」として現れた、日本社会の「倫理的規範」の崩壊と「社会的靱帯」の損壊を、具体的事例を挙げて検討しなかった。

    • 竹内洋とは?

     竹内の略歴を、『竹内洋 経歴と著作目録』(京大大学院教育学研究科教育社会学研究室、2005年)を参照して概観する。

     竹内は「東京都出身」と自称することもあるが、戦中の1942年、新潟県加茂村(佐渡島)出身。1960年、新潟県立両津高校卒業、1961年、京大教育学部入学、1965年、同卒業。

     2年のブランクの後、1967年、京大大学院教育学研究科修士課程(教育方法専攻)入学。しかし、ブランク期の経歴は記載されていない。1970年、同博士課程進学、1973年、同課程単位取得退学。

     1973年、関西大学社会学部専任講師、1985年、京大教育学部助教授(教育社会学)、1993年、同教授、1994年、京大博士(教育学)、1998年~2001年、同大学大学院教育学研究科・教育学部長。

     1997年~2001年、京大評議員、1999年~2001年、日本教育社会学学会会長、2001年~2002年、中央教育審議会臨時専門員、同年~2004年、大学設置・学校法人審議会専門委員、2002年、日本学術振興会・科学研究費委員会専門委員、2004年~2005年、河村健夫文部科学大臣主宰「これからの教育を語る懇談会」委員等々。

    • 竹内洋の「能力主義」研究の概要

    竹内の「能力主義」研究の概要を、彼の『選抜社会―試験・昇進をめぐる<加熱>と<冷却>―』(メディアファクトリー、1988年)を参照して確認する。

    1900年代~1910年代、クエーカー新渡戸稲造は第一高等学校と東京帝国大学で、“to be”と“to do”の選択を説き、“to be”を第一義、“to do”を第二義とした。“to be”は、新渡戸の「教養」思想の中心であった。

    竹内が高校を卒業し、恐らく浪人中だった1960年、丸山眞男は『日本の思想』で「であること(“to be”)」と「すること(“to do”)」の価値転倒を批判し、その再転倒を主張した。

     1988年、日本の「教養」思想の伝統に対し竹内は「なんであるか(“to be”)」を「属性」主義と解釈し、「何ができるか(“to do”)」を「能力主義」や「実力主義」としての「業績」主義と解釈した。

     竹内は「能力主義」による入試の不合格者は「不満」や「失敗感」を沈殿させるので「慰め」としての「冷却」の手段が必要であり、その一つは彼等に一種の「価値の転倒」を提示する「現行の入試制度批判」という形態を取ると主張した。

    このような入試は、当然合格しなかったものに不満や失敗感を沈殿させるから、これを放出し、緩和する手段が必要である。それが「冷却」(なぐさめ)である。「冷却」はいろいろなかたちをとりうるが(中略)しばしば現行の入試制度批判というかたちをとる[7]

     この「冷却=慰め」仮説に、竹内の「能力主義(メリトクラシー)」研究のポイントがあると考えられる。恐らく竹内の博士論文(1994年)も、この延長線上にある。

    • 竹内洋の「学生文化」研究—ブルデュー「ハビトゥス」説の受容と展開—
    • ブルデューの「ハビトゥス」説とは?

    ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」説を、彼の『実践感覚』第1巻(みすず書房、1988年。原書は1980年)を参照して確認する。

    ブルデューは現代フランスを代表する社会学者で、「ブルデュー社会学」は「超領域的人間学」とも称される。日本では彼は「文化的再生産」論の提唱者として知られている。

    ブルデューによれば、「ハビトゥス」とは「持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステム」であり、「構造化する構造」つまり「実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造」である。

    また、ブルデューによれば、「ハビトゥス」とは「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけ」によって「生産」される。

    ブルデューの「ハビトゥス」説によれば、“to be”や“to do”も「心的諸傾向のシステム」としての「ハビトゥス」による「実践と表象」であることになる。

    • ブルデュー「ハビトゥス」説の受容—理解の不正確さ—

    竹内のブルデュー「ハビトゥス」説の受容を、彼の論文「キャンパスの“金魂巻“」(『大学進学研究』第70号、1990年)を手掛かりに確認する。

    竹内は、「ハビトゥス」を「あの人は上品だとか田舎者だ」と言う場合の「行為の基礎にあるシステム」であり、「状態や慣習」でもあると解釈した。

    しかし、「ハビトゥス」とは、単なる「行為」や「実践」のシステムではなく、「持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステム」であり、「実践と表象の産出・組織の原理」でもある。

    ここから竹内は、ブルデューの「ハビトゥス」を正確に理解していなかったことが確認出来る。 

    • 「ハビトゥス」説の展開—日本の「学生文化」研究への適用—

    竹内のブルデュー「ハビトゥス」説の展開を、日本の「学生文化」研究への適用を中心に、「キャンパスの“金魂巻“」を参照して確認する。

    フランスと日本では文脈に差異があり、フランス型「文化的再生産」は現代日本には直接妥当しない。竹内もその点を認識していた。そこから竹内はそれを現代日本にも適用出来るように、以下のようにアレンジした。

    1. 「ダサイ文化」と「洗練された文化」

    たとえば地方の公立高校では模擬試験の成績発表で一番にのるのがかっこいいかもしれない。やや事態を漫画化していえば、読書といえばデル単、シケ単の世界だったかもしれない。都会の有名私立高校では音楽や文学などのそれもかなりマイナーな作品の鑑賞力が競われたりする。つまり前者はダサイ文化であり、後者はソフィスティケートされた文化である。私立のミッション系の高校と公立高校ではこれまた文化が異なっている[8]

    竹内は「私立ミッション系高校」と「公立高校」の文化的差異を指摘するが、「エビデンス(科学的根拠)」を全く提示していない。

    • 「東京の山の手育ち」等の「都会人」と「田舎者」

    さらに育った地域もハビタゥス形成にかかわる。東京の山の手育ちと、わたくしのように新潟県佐渡育ちとでは、都会人と田舎者でこれは最初からセンスが異なっている。(中略)(私立・都会出身と公立・地方出身では――引用者による注)それこそお互いに「世界が違う」ということになってしまう[9]

    竹内は「東京の山の手育ち」の「山の手」を概念規定せずに使用している。従って、「山の手」概念が適用出来る東京都の地域も明確ではない。恐らく竹内の「山の手」観は、「客観的真理」(ユネスコ憲章)ではなく、竹内の「イメージ」である。そうすると、竹内の「イメージ」は、彼自身の「ハビトゥス」によって生産された主観的な「表象」であることになる。

    • <大学の悲喜劇と文化葛藤の各論=「おもしろい」(竹内のハビトゥス)>

    むろん大学そのものがあらたなハビタゥスを形成するが、いずれも過去のハビタゥスという土壌のもとカレッジ・ソシアリゼーション(大学での人間形成)がなされる。こうして、いかにも立教卒のような人がいる反面、エッそれでも立教という人もでることになる。こうしたキャンパスのストレートならざる人間形成、あるいは悲喜劇と文化葛藤の各論はおもしろいのだが、もはや紙数は尽きた。道具をそろえたので読者の読みを期待してひとまず筆を擱くことにする[10]

    竹内は<大学の悲喜劇と文化葛藤の各論=「おもしろい」>と発想した。

    また、竹内は「立教卒」内差異を指摘するが、エビデンスを全く提示していない。そうすると竹内の「立教卒」観も彼の「イメージ」であり、彼自身の「ハビトゥス」が生産した主観的「表象」であることになる。

     「キャンパスのストレートならざる人間形成」は、「悲喜劇と文化葛藤の各論はおもしろい」という「表象と実践」も、竹内自身の「ハビトゥス」によって生産されたものである。

     

    • 竹内洋の「学生文化」研究—対象への「自己投影」―
    • 心理学の「自己投影」説とは?

     心理学の「自己投影」説を、ユング派精神分析家の河合隼雄の『ユング心理学入門』(培風社、1967年)を参照して確認する。

     河合によれば、「投影」とは自らの「影」を「実在しているひとのなかに探す」ことである。「影」の内容とは、「その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が容認しがたいとしている心的内容」であり、それは「そのひとの暗い影の部分」を意味する。

     河合によれば、「自分の周囲にあって、何となくきらいなひとや、平素はうまくいくのに、ある点でだけむやみと腹が立つようなとき、それらは自分が無意識内にもっている欠点ではないかと考えてみると、思い当たることが大いに違いない」。

     しかし、河合は「影」の自我への統合は、「自分で今まで気づいていなかった欠点や否定的な面」を意識化することで、「そのなかに肯定的なものを見出し、生きていこうとする過程は予想外に苦しい」と言う。

     河合によれば、何等かの方法で無意識内の「影」を抑圧して自らの「影」の意識化を回避し、抑圧が余りに強過ぎ、自我と「影」の交流が過度に少な過ぎれば、「影はより暗く、より強くなり、自我への反逆を企てることになる」。

    • 小説の主人公への「自己投影」—中野孝次『麦熟るる日』、『苦い夏』—

     1991年、竹内は「教養」思想と「教養主義」を区別せず同一視した上で、近代日本の学歴エリートは「うさん臭いプチブル」であり、エビデンスを提示せずに「教養主義」を次のように「差異化戦略」と断定した。

    教養主義を知識あるいは真理への無垢な志向とだけみるのは余りにも単純である。(中略)近代日本の正統なる学歴エリートそれ自体うさん臭い存在(プチブル)だった。慇懃の戦略ではなく、差異化戦略が行使されなければならなかった。(中略)専検出身者は、高等教育=社会的上昇という切符を得た代償に教養主義の暴力の恰好の餌食に選ばれてしまったのである[11]

     「専検出身者」とは、正統ではない学歴エリートである。その際、竹内が参照している資料は、中野孝次の自伝的小説『麦熟るる日』と『苦い夏』である(前掲「キャンパスの“金魂巻“」。同『立身・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年。2015年、同書は「講談社学術文庫」化された)。

    自伝的小説であるので、第一次資料でも第二次資料でもない。しかし、竹内は資料批判も全くせず、それらを第一次資料として使用している。その資料の使用方法は、「科学」、「学術」、「学問」と評価するのは難しい。

    • 対象へ「自己投影」した「影」と自我との交流—「プチ教養主義者」の意識化—

     2003年、竹内は無意識内の自らの「影」と交流し、「教養主義」批判を対象への「自己投影」と認め始めた。

    いまからふりかえれば、わたしを含めたプチ教養主義者の教養崇拝は、教養主義的教養癖のきらいもあった。もっといえば、動機のかなりは不純さえあったかもしれない。大半のプチ教養主義者は、散漫な知識を寄せ集めるニーチェのいう教養俗物(『反時代的考察』)のようなものであったことは否めない。私の大学時代はサルトルブームだったが、いま考えれば作品の中身を本当に理解していたかどうか、怪しい。まあ、ほとんど理解していなかったのではないだろうか。それでも時流にのり、実存哲学を振り回し、哲学青年や文学青年を気取ったものである[12]

     次の三点が確認出来る。

    • 「教養主義」者=「プチ教養主義者」=竹内。
      • 「うさん臭い存在(プチブル)」=かなり動機の不純な「散漫な知識を寄せ集める」「教養俗物」=竹内。
      • 「差異化戦略」の行使=不純な動機により「実存哲学を振り回し、哲学青年や文学青年を気取った」京大生=竹内。

     以上により竹内は、「教育社会学研究」において対象に「自己投影」させたことを確認出来る。そうすると竹内は、中野の小説の主人公に「自己投影」の対象を探し出した為に、「理性」による主/客、自/他等の識別が困難化し、「リアリティ」や「実感」を「客観的真理」と「誤認」して同一視したことになる。

    • おわりに―「能力主義」教育による普遍主義的「人間」の危機―
    • 結論

    世界人権宣言が提示した普遍主義的「人間」観とは、主/客、自/他等を識別する「理性」、善/悪を質別する「良心」、共生/共存を可能にする「友愛の精神」を持つ人間存在である。

     竹内は、対象に「自己投影」させ、「理性」によって主/客、自/他を識別出来なくなっていた。また、竹内は「いかにも立教卒のような人がいる反面、エッそれでも立教という人もでること」を「おもしろい」と発想した。

    「友愛の精神」の「友愛」とは、英語の”brotherhood”である。『リーダーズ英和辞典(第3版)』によれば、”brotherhood”とは「仲間であること」、「連帯」等である。しかし、竹内には「友愛の精神」は確認出来なかった。

     以上から竹内を事例に検討した「能力主義」教育による「ハイ・タレント」養成の現実とは、「人間」の危機を意味した。

    しかし、竹内には膨大な著作があり、竹内全体が「人間」の危機に陥ったことは証明していない。また、事例がまだ少ないので、「ハイ・タレント」全体が「人間」の危機に陥ったことも証明していない。

    竹内の「ハイ・タレント」全体の代表性の問題がある。代表性を確認するには、他の「ハイ・タレント」も検討する必要がある。しかし、今後の課題とする。

    • 含意

    1967年、堀尾は大学の「教養」をめぐる問題として「専門閉塞」を指摘したが、しかし遅くとも1990年代以降、「専門」は「対象への『自己投影』」により非「科学」化されていた。それは「客観的真理」の「(準)主観」への解消でもあった。

    その結果、1967年に堀尾が批判した「専門閉塞」は、「非『専門』閉塞」へ後退し、大学の「教養」をめぐる問題はより一層深刻化した。それにより「人間」の危機もより一層深刻化したと考えられる。

    結論の含意とは、①「第二次ベビー・ブーマー」前後の世代の大学進学、②同世代の「教員」採用による大学の急速な「大衆化」により、大学の「教養」をめぐる問題は一層深刻化し、大学は急速にレベルダウンし、現在に至ることである。


    [1] https://www.un.org/en/about-us/universal-declaration-of-human-rights(2024年8月15日アクセス) 私訳。

    [2] 堀尾輝久「国民教育における『教養』をめぐる問題」、『思想』第522号、岩波書店、1967年12月、pp.1、14。

    [3] 日本カトリック司教団『いのちへのまなざし―二十一世紀への司教団メッセージ―』カトリック中央協議会、2001年、p.9、20。

    [4] 金子聡「シェア可能な『世界人権宣言』を手掛かりに確認する―『能力主義』が解体した『人間』と『教育』とは何か―」、本誌第329号、2023年8月31日。

    [5] 教育制度検討委員会+梅根悟編『日本の教育改革を求めて』勁草書房、1974年、pp.82~83。

    [6] 宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年、pp.2~3。

    [7] 竹内洋『選抜社会―試験・昇進をめぐる<加熱>と<冷却>―』メディアファクトリー、1988年、p.67。

    [8] 竹内洋「キャンパスの“金魂巻“」、『大学進学研究』第70号、1990年、p.14。

    [9] 同上書、同頁。

    [10] 同上書、p.15。

    [11] 竹内洋『立身・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年、pp.165~166。

    [12] 竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化―』中公新書、2003年、p.24。

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