1. はじめに
米ソ冷戦後、国連は人権の普遍性を確認し、人権教育を国家の義務であると再確認した。日本政府も応答し、「教育の中立性」を重視して人権教育政策を展開した。
文科省の人権教育の指針には、相対的に中立的なヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」が反映されている。「包括的人権教育」とは、ヨーロッパ評議会が企画した人権教育マニュアルである。同マニュアルには、『コンパス』(2001年)と『コンパシート』(2007年)がある。
冷戦後における日本の人権教育政策を、ヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」の受容と展開を中心に紹介する。
2. 経緯
1945年、国連憲章、ポツダム宣言で人権が重視された。
1946年、日本国憲法で基本的人権が「公共の福祉」とのバランスの中で保障された。
1947年、米ソ冷戦の本格化。
1948年、国連は世界人権宣言を採択したが、東西等で「人権」の評価が分裂した。
1989年、米ソ冷戦終結、1991年、ソ連崩壊。
1993年、国連は世界人権会議で「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性を確認した。また、33「人権教育」では、人権及び基本的自由の尊重を強化する「教育」の国家の義務を次のように再確認した。
33「人権教育」
世界人権会議は、世界人権宣言、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約その他の国際人権文書が規定するように、教育が人権及び基本的自由の尊重を強化することを目的とするよう国が確保する義務を負うことを再確認する。
「ウイーン宣言及び行動計画(抄)」、大沼保昭+藤田久一編集代表『国際人権条約集 2003年版』有斐閣、2003年。
1999年、人権擁護推進審議会答申。
2000年、「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」。
2002年、「人権教育・啓発に関する基本計画(第一次)」。
2003年、文科省は「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」設立(座長=福田弘筑波大学名誉教授[現在])。
2008年、人権教育の指導方法等に関する調査研究会議「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」。
「第三次とりまとめ」では、「学校の人権教育の中立性の確保」が次のように重視された。
学校における人権教育については、教育の中立性を確保することが厳に求められる。 学校は、公教育を担う者として、特定の主義主張に偏ることなく、主体性を持って人権 教育に取り組む必要があり、学校教育としての教育活動と特定の立場に立つ政治運動・社 会運動とは、明確に区別されなければならない。 各学校においては、これらを踏まえ、学習プログラムや具体的な授業計画を組むに当たり、中立性の確保に十分な注意を払わなければならない。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/024/report/08041404.htm
3. ヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」が与えた「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」への影響
人権教育の指導方法等に関する調査研究会議「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」には、座長だった福田のヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」研究の成果が反映されている。
その研究成果とは、福田の科研費報告書『欧州評議会人権教育事業分析に基づく人権教育カリキュラム・教授法開発の基礎的研究』(2004~2006年度)である。
福田の科研費報告書の概要は、以下の通りである。
分析・検討の成果の一部を、平成15年以来座長を務めている文部科学省「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」の「人権教育の指導方法等の在り方について[最終とりまとめ]」(平成19年6月公表予定)の主要部分及び資料編の作成に活用した。
福田弘研究代表『2006年度科研費実績報告書 欧州評議会人権教育事業分析に基づく人権教育カリキュラム・教授法開発の基礎的研究』(https://kaken.nii.ac.jp/report/KAKENHI-PROJECT-16530564/165305642006jisseki/ )
なお、欧州評議会の上記”COMPASS : A Manual・・・”の単独邦訳を完成し、平成18年12月に『人権教育のためのコンパス[羅針盤]-学校教育・生涯学習で使える総合マニュアル-』と題して出版した。
さらに、平成19年3月、欧州評議会人権教育指導者養成専門員のエリザベス・メルクソー氏との協同で、財団法人人権教育啓発推進センター(東京都)において、全国から参加者を募って第1回の「人権教育のための『コンパス』[羅針盤]」に基づく指導者養成セミナーを実施し、40数名の参加を得た。その他、都府県の多くの教育庁の主催による教職員人権教育研修会で研究成果に基づく講義を行った[i]。
当時の「財団法人人権教育啓発推進センター」とは、現在の公益財団法人・人権教育啓発推進センターである。
福田はその研究成果の一部を、「人権教育の指導方法等の在り方について[最終とりまとめ]」の主要部分及び資料編の作成に使用したと、次のように証言していた。
分析・検討の成果の一部を、平成15年以来座長を務めている文部科学省「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」の「人権教育の指導方法等の在り方について[最終とりまとめ]」(平成19年6月公表予定)の主要部分及び資料編の作成に活用した。
以上から福田が座長を務めて作成した[第三次とりまとめ]は、福田のヨーロッパ評議会の人権教育の研究成果を踏まえたものであると評価出来る。
4. 「ナショナル・センター」としての公益財団法人・人権教育啓発推進センター
「人権教育・啓発に関する基本計画(第二次)」(2025年)は、公益財団法人・人権教育啓発推進センターを次のように人権教育啓発の「ナショナル・センター」として位置付けている。
(公財)人権教育啓発推進センターには、民間団体としての特質をいかした人権教育・啓発活動を総合的に行うナショナルセンターとしての役割が期待されている。 そこで、その役割を十分に果たすため、組織・機構の整備充実、人権課題に関する専門的知識を有するスタッフの育成・確保など同センターの機能の充実を図るとともに、人権ライブラリーの活用、人権啓発指導者養成研修のプログラムや人権教育・啓発に関する教材や資料の作成など、同センターにおいて実施している事業のより一層の充実が必要である。
https://www.moj.go.jp/content/001440366.pdf
5. 公益財団法人・人権教育啓発推進センターの「コンパシート・セミナー」
(1)講師
(A)第一代講師―福田弘―
前述のように福田は2007年3月、ヨーロッパ評議会人権教育指導者養成専門員のエリザベス・メルクソーとの協同で、財団法人人権教育啓発推進センター(当時)で、第1回「人権教育のための『コンパス』[羅針盤]」に基づく指導者養成セミナーを実施し、40数名の参加を得た。
(B)第二代講師―福田弘の弟子の田中マリア―
コンパシート・セミナーの第二代講師は、筑波大学大学院時代の弟子である田中マリア筑波大学準教授である(以下、田中)。
田中の専門は、「道徳教育学」である。研究テーマの概要は、以下の通りである。
1、18世紀フランスの啓蒙思想家、J.J.Rousseauの教育思想について、その人格形成論における宗教と道徳の関係の把握、解明。
2、スイスの価値教育、とりわけ倫理、宗教文化、市民性の教育を手がかりに、日本の道徳教育との比較、検討。および人権教育、ヨーロッパ評議会による人権教育マニュアル(『コンパス』、『コンパシート』)のアクティビティを通した授業分析、実践。
3、和文化、とくに能楽(狂言)のお稽古および舞台発表を通して、日本の修養思想およびその伝承方法に関する体験、考察。
「田中マリア」、『筑波大学人間総合科学学術院教育学学位プログラム人間学群教育学類』筑波大学(https://www.education.tsukuba.ac.jp/institute/member/%e7%94%b0%e4%b8%ad%e3%83%9e%e3%83%aa%e3%82%a2/ )
(2)内容
現在、ヨーロッパ評議会の人権教育は、公益財団法人・人権教育啓発推進センター主催のコンパシート・セミナーで毎年度開催されている。毎年度、次の四回のセミナーが開催されている。受講料は無料である。受講者には、「受講修了証」が発行される。
①「基礎コース」(1日)×2回。
②「中級コース」(2日)×1回。
③「実践コース」(2日)×1回。
毎回、全国から人権教育に関係する受講者が集まって来る。同セミナーでは、参加者はグループ化される。セミナーは①講義と②アクティビティから構成される。「子どもの権利」等のようなアクティビティは、基本的に受講者全員が参加して実践する。
(3)「『人権教育』の在り方」―ヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」―
2025年7月26日に開催された「『コンパシート・セミナー』基礎コース」で、田中は福田のヨーロッパ評議会の人権教育研究を継承して「『人権教育』の在り方」の特徴を次のように五点挙げた。この「『人権教育』の在り方」は、ヨーロッパ評議会の「コンパシート」から福田が抽出した「包括的人権教育」である。
①Education(for)human rights:人権「のための」教育・・・「人権」という考え方、価値観を守り、育み、継承する(目的的側面)。
②Education(as)human rights:人権「としての」教育・・・「教育を受けることそのものが人としての権利である」あらゆる権利の保障(保障的側面)。
③Education through(in)human rights:人権「を通しての」教育・・・「学習プロセス」そのものが人権の守られた状態で行われる(学習プロセス、方法的側面)。
④Education about(on)human rights:人権「についての」教育・・・人権問題としての具体的事例(「ジェンダー、いじめ、高齢者、障害者、同和、アイヌ、外国人、HIV、ハンセン、犯罪、LGBT等々」)(内容的側面)。
3. おわりに
冷戦後における日本の人権教育政策を、ヨーロッパ評議会の「包括的人権教育」の受容と展開を中心に紹介した。
現在、「包括的人権教育」は、公益財団法人・人権教育啓発推進センターの「コンパシート・セミナー」で実践されている。「包括的人権教育」は、日本の「学校」でしばしば見られる「思いやり」や「優しさ」等の心情的価値教育としての人権教育とは異なる。近年では地方自治体の中にも「包括的人権教育」に注目する場合もある。
「包括的人権教育」には批判もある。例えば、教育学者の原口友輝によれば、「重い 体験をもつ参加者を傷つけるものになってしまった」、「実りある学習活動からほど遠いものになってしまった」というような批判がある。
しかし、批判を踏まえて現在の「包括的人権教育」のメリットとデメリットを検討して、ブラッシュアップすることは今後の課題である。