国連の世界人権会議(1993年)に対する公教育制度の相対的自律性ー「教育への権利」の「教育」は存在しない?ー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議を採択し、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性、相互不可分性、相互依存性、相互関連性を(再)確認した。1994年、国連は懸案事項だった人権高等弁務官を漸く設立した。1995年、国連は「人権教育のための国連の10年」、2005年、「人権教育のための世界計画」をスタートした。

 日本政府もリアルタイムで国連の人権政策に応答して、外務省も国連で積極的に人権外交を展開するようになった。1999年、人権擁護推進審議会答申が出され、人権教育の中立性が重視された。

 しかし、日本の公教育制度には国際人権基準の「教育への権利」の「教育」が存在しないという説もある。本稿では同説を確認する。

2.国際人権基準の「教育への権利」の「教育」ー国連の世界人権宣言(1948年)ー

 国際人権の原点であり、国際慣習法でもあるのは、国連の世界人権宣言(1948年)である。

第1条

 すべての人間(All human beings)は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

第26条「教育への権利」

1. 全ての者は教育への権利を持つ。教育は少なくとも初等で(elementary)基礎的な(fundamental)段階では無償にすべきである。初等教育(Elementary education)は義務的(compulsory)にすべきである。テクニカルで職業的な教育は一般的に利用出来(available)、高等教育(higher education)は平等に全ての者にメリット(merit)を基礎にアクセス出来るべきである

2. 教育(Education)とは、人間的パーソナリティ(human personality)の十全な発達(full development)並びに、人権及び基本的自由のリスペクトの強化を指向するものとする。教育は、すべての国民の間及び人種的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好(friendship)を促進し、並びに、平和の維持のための国際連合の活動を推進するものとする

3. 両親は子どもに与える教育の種類を選ぶ優先的権利(a prior right to choose)を持つ

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

第29条

1. 全ての者は、パーソナリティを可能な限り自由で十全に発達(development)出来るコミュニティにだけ義務(duties)を負う

2. 全ての者は、自己の権利及びフリーダムズの行使に当たって、他の者の権利及び自由の正当な承認(recognition)及びリスペクトを確保すること並びに、民主社会の道徳(morality)、公共的秩序(public order)及び一般的福祉(general welfare)の正当な要求を満たすことを専ら目的として法により定められた制限にのみ服する

3. これらの権利とフリーダムズは、国連の目的と原理に反す場合は行使出来ない

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

3.日本の人権教育政策

 1999年、人権擁護推進審議会答申。

 国民一人一人において、個々の人権課題に関して正しく理解し、物事を合理的に判断する心構えが十分に備わっているとは言えないことが、それぞれの課題で問題となっている差別や偏見につながっているという側面もある。

https://www.satoshi-kaneko.com/justice/6247/

 ともすると知識を一方的に教えるにとどまっている,人権尊重の理念について必ずしも十分認識していない指導者が見られる,などの問題が指摘されている。また,人権教育を実施するに当たっては,外部の不当な介入を受けることなく,教育の中立性を確保することが引き続き重要な課題となっている。

https://www.satoshi-kaneko.com/justice/6247/

2000年、「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」制定。

 「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」には、人権教育の精神の涵養かんようを目的とする教育活動」であると定義されている。これは、個人が優しさや思いやりをはぐぐむことを目的としていて、いわゆる「優しさ・思いやりアプローチ」の教育が強調されている。そして多くの人が、人権とはそういうものだと理解している。

藤田早苗『武器としての国際人権―日本の貧困・報道・差別―』集英社新書、2022年、p.17。

 2002年、「人権教育・啓発に関する基本計画(第一次)」策定。

 2003年、文部科学省、「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」設立。

 2008年、同調査研究会議、「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」・・・同会議の座長であった福田弘筑波大学名誉教授(現在)のヨーロッパ評議会の包括的人権教育の研究成果が反映される。

 文科省の人権教育政策は国際人権と整合的、互換的である。

 しかし、学習指導要領の人権教育は不明である。「人権科」という科目は「学校」にはない。一説によれば、既存の教科教育の枠組みの中で人権教育を展開している。しかし、それは証明する必要がある。 

 地方自治体では一般行政から教育行政が相対的に独立している。従って自治体の教育委員会は一般行政に対して相対的自律性がある。

 自治体の人権(教育)政策も自治体間差異がある。また、同一の自治体内でも一般行政と教育行政間には内的差異もある。

 例えば、大阪市立大学(現在は大阪公立大所属)の阿久澤麻理子教授が一九九九年から二〇〇〇年にかけて東京から福岡まで一七三六人の学校教員と社会教育の担当者を対象にアンケートしたところ、その多くが思いやりなどの抽象的価値観と同一視していたという。

同上書、p.17。

 以上から人権擁護推進審議会答申の「人権尊重の理念について必ずしも十分認識していない指導者が見られる」という指摘は当時の日本の教育関係者一般に妥当することが確認出来る。この事実は、日本の場合、教育関係者も国際人権基準の「義務」「教育」を受けたことになっていない状態であったことになる。

4.日本の「教育」の現実

 2022年段階でも地方社会では同様な現象が確認された。例えば、大分県大分市の場合である。

 今、私の手元には大分市の人権教育推進協議会の会報誌がある。この表紙には、「思いやりとやさしさに満ちた……街づくり」と書かれている。しかも、その「人権フォトコンテスト」でも受賞作品は優しさ・思いやりのオンパレードだ。

 以上の状態も国際人権基準の「義務」「教育」ではないことが確認出来る。

 現在でも、人権関係機関の職員は、東京都でも人権を正確に教えることが出来ず、「優しさ」「思いやり」として教えていると指摘していた。しかし、東京都の教育委員会の教育長は、それは事実ではないと否定していた。

 2025年12月6月に開催された「第32回こどもたちからの人権メッセージ発表会」では、子どもたちは基本的に人権を「思いやり」「優しさ」と「誤認」していた。しかし、一人の小学生だけ日本国憲法を自分で読み人権を正確に理解していた。しかし、2025年段階でも、東京都の子ども達も全体的には国際人権基準の「義務」「教育」を受けていないことが推測された。

5.日本の大学の「教育」の現実

 国連の世界人権会議以降でも日本の大学では、国際人権基準の「教育への権利」の「教育」は実践されていなかった。基本的に「日本国民」の教員は「教育」を実践していなかった。例外は「ヨーロッパ人」の神父の教員等である。

 1980年代以降、国際人権条約研究が発達して、政府の国際人権法の保護義務も重視されるようになった。しかし、政府も1990年代から2000年代にかけても日本の大学(院)では殆ど「教育」は保障されていなかった。

 恐らくそれは日本の大学の構造的な問題と関係する。「大学の自治」がある日本の大学の場合、日本国憲法第23条で保障されている「学問の自由」を基礎にした「教授の自由」があり、それが「教育への権利」と対立する傾向があるが、憲法には「大学の自治」の規定は存在しない。しかし、「教授の自由」を重視する場合、基本的に国際人権基準の「教育」は実践されなくなる傾向がある。

 しかも、ヨーロッパの大学と比較して日本の大学は外部に対してアカウンタビリティ(説明責任)を十分に果たさないにもかかわらず、外部からの介入を許さず独立性が高い点に大きな特徴があると指摘されている。その結果、監督官庁である文科省も、大学内に深刻な人権問題等があっても直接介入したり大学設置認可を取消したりすることが極めて難しいと評価されている。それ故に日本の大学は、構造的に需給バランスを効率的に調整する市場メカニズムのメリットが十分に機能しない領域を構成している。恐らくこの点は私立大学にもある程度妥当する。その点はNHKと比較出来る。

 しかし、私立大学も高度な相対的自律性を持つが、基本的には市場メカニズムを基礎にしている。従って大学内部の人権問題等が公開されると、情報の非対称が多少対称化され相対的に透明性が確保され、需給バランスの調整が行われ経営破綻する場合もある。実際、日本のカトリック系学校の場合、市場メカニズムにより需給バランスが調整され、経営破綻する学校も少なくない。その結果、私立大学は大学内部の人権問題等の公開に対して強く抵抗する場合もある。

 それに対して大学によれば、司法的に応答する場合もある。しかし、まだ広がりは余り見せていない。

1. はじめに  米ソ冷戦後の1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認し、人権教育を国家の義務とし、1995年から「人権教...

6.おわりにー日本には「義務」「教育」は存在しないか?ー

 日本の公教育制度は、文科省の人権教育政策に対しても高度な相対的自律性を持っている。特に大学はそれが妥当する。多くの場合、国際人権基準の「義務」「教育」を受けたことになっていない可能性が高い。

 しかも、それは東大進学者にも妥当する可能性もある。1988年、遠藤康夫東大保健センター長(内科)と山田和夫同大保健センター副長(精神科)との対談し、東大進学者の「準神経症」問題を指摘した。

 今問題になっているのは(中略)神経症というよりも準神経症、パラノイローゼといったものです。(中略)端的に言うと、それは受験勉強の時間が長すぎたからなんです。(中略)多分彼らの大学入学以前の自信の中核は勉強ができるという点にあったのでしょう。ところが東大ではそれが相対化されてしまって支えにならない。そして、その自信を喪失したところへ何かひき金があると、無気力に、つまりアパシー退却をしてしまう。(中略)孤立してしまうケースとしては地方の秀才が一番危ない。

「対談 憂鬱な東大生」、『東京大学新聞』第1578号、1988年4月5日。

 長期間の「受験勉強」が国際人権基準の「教育」と整合的でない場合、客観的に「能力主義(公正)」の実現を通して「義務」「教育」を受けていない状態で東大に進学して孤立化しつつ「準神経症」を発症した可能性がある。

 「義務」「教育」とは、「人間的パーソナリティ(human personality)の十全な発達(full development)並びに、人権及び基本的自由のリスペクトの強化」を指向する「教育」である。事実の場合、東大進学後に「義務」「教育」を実践する必要があるかも知れない。「人間的パーソナリティ」の発達可能性がまだあれば、東大進学後でも間に合う可能性がある。

 先行して東大を卒業して大学教員になった「日本国民」は一見して「(準)神経症」であることが分かった。そうするとこの問題は1988年以前から東大に存在したものである可能性がある。しかし、長期間の受験勉強を経験しないライフコースを辿る「日本国民」は、同じ「日本国民」でも「(準)神経症」の発症リスクは低かった可能性もある。

 いずれにせよ既存の公教育制度は「教育への権利」の「教育」を保障する上で効率的な役割を果たしていない。しかし、「日本国民」が「教育」に無知でまたそれへのニーズが無い状態で、「教育」の需給バランスを市場メカニズムに委ねる場合、「教育」は実現しない。そうすると既存の公教育制度以外で「教育」を保障する必要がある。

 実際、現在の日本では主に公益財団法人が「教育」を供給している。既存の公教育制度では筑波大学やICU等である。しかし、他にもあるかも知れない。現状では「公共」の領域で「教育」を提供する必要がある。「教育」が十分に供給され「日本国民」もそれを理解しそれへのニーズがあれば、その供給は市場メカニズムに委ねることが出来るが、現在はまだその条件は整ってはいない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする