「大学」の社会人文系「学問」の問題点とは?ースケッチの試みー

1. はじめに

 第二次世界大戦後、日本の「大学」で「基本的人権」の一つとして制度化された社会人文系「学問」は、科学的自律性を欠き、その結果として「イデオロギー」化、派閥化、人権侵害等の深刻な問題を生んでいる可能性がある。

 その問題点のスケッチを試みる。

2. ヨーロッパ

 1810年に創設されたドイツのベルリン大学で、科学は自然科学、社会科学、人文科学に分化された。その際、哲学は普遍科学とされた。

 この分化は、科学が宗教や国家から自律した知の領域として成立したことを意味する。

3. 近代日本

 19世紀後半の日本の帝国大学では、西洋の個別科学が受容、展開された。

 ①当時の法令では「科学」ではなく「学術」と表現されたこと。

 ②「学術」は自律性を承認されず、国家の「須要」に応じるものと定位されたこと。

 ③「哲学」も普遍科学ではなく「個別科学」として制度化されたこと。

 ※大正教養主義による科学、学術、学問の再定位の試み。

 ※京都学派の哲学による科学、学術、学問の基礎付けの試み。

4. 現代日本

 1946年に公布された日本国憲法第23条では、「基本的人権」の一つとして、「科学の自由」ではなく「学問の自由」が保障された。概念的には「科学<学問」である。人権としての「学問」は主に「大学」で制度化された。

 日本の場合、概念的には「社会科学、人文科学<社会人文系「学問」」である。

 カール・ポパーの「科学」説では、「科学」の条件は「反証可能性」である。「反証可能性」とは、「理論を間違っていると示す観測や実験が、論理的に可能であること」である。

 反証可能性をもった言明あるいは言明の体系のみが経験科学的である。(中略)純粋存在言明や原理的に反証を受けつけない言明は経験科学の向こう側に位置づけられる。反証可能性のみが科学性の規準なのである。

小河原誠『ポパーー批判的合理主義ー』講談社、1997年、p.118。

 「反証可能性」は、自然科学にはあり、社会科学にはある程度あり、人文科学には余り/殆どないと評価される。日本の社会人文系「学問」は「科学」ではない場合もあり、「反証可能性」がない場合もある。

 社会科学や人文科学は、カール・マンハイムの「イデオロギー(存在拘束性)」から自由ではない。しかし、マンハイム説は、「イデオロギー」を自覚することにより相対的に「イデオロギー」から自由になれるとする。

5. 日本の社会人文系「学問」

(1)「イデオロギー」

 日本の社会人文系「学問」は、社会科学や人文科学とも異なる。従って社会科学や人文科学よりも高度にマンハイムの「イデオロギー」説が妥当する。

(2)「アイデンティティ」

 日本の社会人文系「学問」の「イデオロギー」は、「学問」の主体の「アイデンティティ」とも関係する。

 (a)発達心理学者のエリック・エリクソンの「アイデンティティ identity」説ー事典的説明ー

 ‘エリクソン’(Erikson,E,H.1959)の心理社会的発達理論の用語で、正確にはエゴアイデンティティ(ego identity)である。自我同一性、同一性と訳されるが、単にアイデンティティなどともよばれる。エリクソンによれば、アイデンティティの間隔とは、内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力(心理学的意味での個人の‘自我’)が、他者に対する‘自己’の意味の不変性と連続性とに合致する経験から生まれた自信であり、「自分は自分でありほかの誰でもない」という感覚と、「過去も今日も未来もずっと自分であり続ける自分」についての意識が、他者からも同じように認識されているという感覚をさす。つまり、アイデンティティとは、内省により自覚される‘自己意識’であり、他者との相互作用により自覚され、評価される社会的な自己をさす。

「アイデンティティ identity」、『有斐閣 現代心理学辞典』有斐閣、2021年。

 (b)政治哲学者のチャールズ・テイラーの「アイデンティティ」論ー社会空間上の「移動」の一形態による「危機」ー

 他者の承認が得られる社会では、ひとびとはアイデンティティに満足していますが、まだ他者からの承認が得られていないような小さな飛地的社会では、ひとびとはとても傷つきやすくなっています。だからアウトサイダーにとって承認の問題はさし迫った問題です。特に社会的上昇を遂げたアウトサイダーが、自分たちをもとの歪んだ像にひきもどすような企てを承認しないということは実際にはあり得ることです。かれらにとってそのようなことは、極めて不安なことであり、社会的上昇によって獲得した力を失うことになるからです。

チャールズ・テイラー[岩崎稔+辻内鏡人訳]「多文化主義・承認・ヘーゲル」、『思想』第865号、岩波書店、1996年7月、p.9。

(c)政治学者の岡野八代の証言

 わたしは、三重県の松阪市で生まれ育ちました。松阪牛で有名なわたしの故郷は、大学進学を機に離れてみてようやく、歴史的に作られた複雑な差別構造をもった市なのだと気づきました。それ以来、差別やアイデンティティの問題に関心をもち、歴史的・理論的にこれらの問題を考えるために、哲学ではなく、政治思想を専門に選びました。内向的な思索ではなく、世界とのかかわりの中で、差別やアイデンティティの問題を考えたかったからです。

https://global-studies.doshisha.ac.jp/gs/faculty_members/list/okano/index.html

6. 「大学」で制度化された社会人文系「学問」の問題点

(1)非「科学」性。

(2)普遍科学や「全体知」を基礎にしない高度な「専門分化」⇒学問水準のレベルダウン⇒「専門化」でもない「学問」の「分化」/「細分化」。

(3)科学論争でもない「イデオロギー」闘争や「アイデンティティ」闘争。

(4)「反省的理性」の欠如による「イデオロギー」の自覚の欠如⇒「イデオロギー」から相対的な自由の困難性/不可能性。

(5)派閥闘争や権力闘争。

(6)権力関係の中での人権侵害⇒「大学」内での救済制度の欠如⇒救済可能性の欠如。

(7)「大学」の「パラサイト(寄生虫)」的性格。

 問題点は、「科学的自律性の欠如 ⇒反省的理性の欠如 ⇒「イデオロギー」化⇒派閥化⇒権力濫用⇒人権侵害 ⇒救済不能」と整理出来る。

7. おわりに

 日本の「大学」の社会人文系「学問」に客観的に問題がある場合でも、「公金」の不正支出や刑法の「詐欺罪」に問うのは難しい。「学問」の質の低さは、基本的には「評価」の問題になる。

 しかし、制度的問題が改善されずに「大学」に「公金」が支出され続ける現状は、「大学」の制度的な正統性(legitimacy)そのものの再検討の対象になる。

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