人間と「真理」との関係ー「大学」への「公金」支出の前提条件とはー

1 はじめに

 古代ギリシャと近代の科学革命以降では、人間と「真理」との関係も異なる。科学革命以降、「真理」は「科学的真理」へ展開し、「パイデイア」等から解放され、自律性や自律的価値を獲得した。

 もし「大学」の「科学的真理」が非「科学的真理」化し、「パイディア」等の有用性も主張出来ず、国内、国際的人権基準からも逸脱する場合、国家権力や公権力は「公金」の支出を制限、禁止出来るか?

2. 古代ギリシャ哲学の「真理」観

 古代ギリシャ哲学では「真理」の探究は、「φιλοσοφία(philosophia)」(知を愛すること)と表現された。また、その「真理」とは、近代の科学革命以降の「科学的真理」の自律性や自律的価値とは異なり、「paideia」(パイデイア:人格陶冶・教養形成)に従属する従属的価値だった。

 1967/1971年、「戦後教育学のリーダー」とされる堀尾輝久も、次のようにその点を指摘している。

 教養(paideia)とはギリシア語の原意において、人を人として育て、その諸能力の調和した発達をはかることを意味し、したがって、本来それは、人間的なものとしての意味をあわせもっていた。そのことは、それが、humanitasというラテン語に移され、あるいはドイツ語で人間形成の意味をもつBildungと訳されたことからも察せられる。

堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.368。

3. 近代の科学革命以降の「科学的真理」観

 近代の科学革命以降の「科学的真理」の中心は、自然科学が証明する「科学的真理」である。その「科学的真理」とは、「普遍法則」である。代表的な「普遍法則」としては、ニュートンが証明した「万有引力の法則」がある。

 1810年、ドイツでヴィルヘルム・フォン・フンボルトがベルリン大学を創設し、「大学」という形態で制度化された「科学」は、①自然科学、②社会科学、③人文科学から明確に構成された。基本的にこの「科学」の構成は現在まで継承されている。

 しかし、自然科学、社会科学、人文科学では「科学」観が異なる。また、自然科学、社会科学、人文科学の「科学的真理」観も異なる。自然科学の「普遍法則」という意味での「科学的真理」観は、社会科学や人文科学の「科学的真理」観とは異なる。特に人文科学の「科学的真理」観は、科学的に証明されるものではなく、主に解釈されるものである。

4. 日本の「学術」「科学」「学問」観

 「科学」や「科学的真理」には、自律性や自律的価値がある。しかし、近代日本では「学術」は国家の「須要」に応じるものとして定位された。

 現代日本の憲法では、「学問の自由」は「基本的人権」の一つとして再定位された。憲法で規定された「学問」は、「科学」よりも広い意味がある。しかし、憲法では、「学問の自由」の「学問」の自律性や自律的価値には言及されていない。憲法の前文との関係で解釈する場合、「学問の自由」の「学問」も前文にある程度従属する可能性はある。

 ユネスコ憲章(1945年)でも、「科学(サイエンス)」は「平和」や「安全」への貢献との関係で定位されている。この点は日本国憲法と類似性がある可能性もある。

5. 米ソ冷戦期の社会科学と人文科学の「科学」観ー教育学者の堀尾輝久を事例にしてー

 しかし、現代日本、特に米ソ冷戦期の日本では、「科学」、特に社会科学や人文科学は、「イデオロギー」や個人や集団の「アイデンティティ」や「ルサンチマン(怨恨)」等を巡る闘争に従属して、「科学的真理」としての自律性や自律的価値を喪失した可能性はある。

 冷戦期の堀尾も、マルクスの思想あるいはマルクス主義の影響圏内にあった。

 労働の搾取と、富の蓄積のからくりを科学的に解明することによって、このような理論を媒介することによってはじめて、社会主義運動は、不平等への自然発生的反作用的性格から高度な自覚的運動へと発展する。そしてこの科学的解明の理論こそ、マルクスの剰余価値理論に他ならない。(中略)こうして、今日の平等思想は、資本主義の科学的分析を媒介とする経済的実質的平等の要求・階級廃止の要求に収斂される。

堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、pp.243~244。

 マルクスは、階級対立と二つの文化の分裂の根源を、労働力の商品化と、頭と手の労働の分裂(分業)による人間の非人間化の中に見出し、階級の止揚という歴史的課題を、疎外の克服と人間の全体性の回復という、いわば人間学的課題に結びつけてとらえていた。全人間の人間的解放こそがマルクスの課題であった。

堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.371。

 「イデオロギー」概念の最も科学的な参照基準は、カール・マンハイムの「存在被拘束性」説である(カール・マンハイム[高橋徹+徳永恂訳]『イデオロギーとユートピア』、高橋徹責任編集『世界の名著』第68巻(マンハイム オルテガ)中央公論社、1979年)。

 マンハイム説の場合、「イデオロギー」は特定の集団だけに妥当する訳ではなく、基本的に全ての人間に妥当する。

 しかし、こうした傾向は、冷戦後の日本でもある程度継続した可能性もある。

6. 社会人文系「学問」の「科学的真理」からの逸脱と有用性の欠如ー不要論の合理的根拠ー

 社会科学や人文科学の「科学的真理」の理念から逸脱した社会人文系「学問」は、「科学」としては評価出来ない。しかし、そうした社会人文系「学問」も、「科学」よりも広い意味を持つ日本の「学問の自由」の「学問」を構成する可能性はある。

 恐らく理念から逸脱した社会人文系「学問」の実践は、「科学」の実践ではなく、複数の人権の行使であると評価出来る。例えば、「学問の自由」、「思想の自由」、「表現(言論)の自由」、「信教の自由」等である。

 「科学的真理」は、自律性や自律的価値がある。従って有用性が無くても存在価値を正当化出来る。しかし、「科学」の理念から逸脱した社会人文系「学問」の成果は、「科学的真理」ではないので、自律性や自律的価値を主張出来ない。また、有用性も無い場合、有用性も主張出来ない。

 その場合、合理的に社会人文系「学問」不必要説が形成される。

7. 米ソ冷戦後における教育学者の堀尾輝久の「平等(階級廃止)」観の変化

(1)「平等」観の変化ー「階級廃止」から「差異を貫く普遍」へー

 たしかに、これまで私たちは、人間、それぞれ差異はあるが人間として平等だといった感覚を重要だと考えてきたが、同時に、その具体的な差異はすばらしい個性として認め合うことも重要なのだ。(中略)「差異を超えて」の普遍とともに、「差異を貫いて」の普遍なるものへの感覚のほうが、これからはいっそう重視されなければならないと思う。

堀尾輝久「人権思想の発展と人権教育」、『教育学論集』第42号、中央大学教育学研究会、2000年、p.111。

(2)「解放」観の変化ー「階級廃止」から「偏見からの解放」へー

 教養の伝統は知の連環といいますか、真理が人間を自由にするということです。それを軸にしながらliberateということがあった。別の言い方をすれば、偏見からの解放。そして人間的な感性を取りもどすことは、非常に大事なことだと思う。人と対象との関係、人と人との関係、そして自分の内面との関係をどうつなぐかということが大事なのでしょう。

堀尾輝久+ノーマ・フィールド「『教養』としての教育」、『みすず』第43巻第1号、2001年1月、p.80。

8. おわりに

 もし「科学」の理念から逸脱し有用性も確認出来ない場合、国家権力や公権力は「大学」への「公金」の支出を、制限したり禁止したりする必要もあり得る。

 「大学」等に「公金」を支出する場合、前提条件がある。もし「大学」の「学問の自由」の「学問」の実践が「科学」の理念から逸脱したり有用性を主張出来ず、国内、国際人権基準からも逸脱している場合、「公金」を支出する前に改革する必要がある。

 恐らくそれが「公金」の支出の前提条件になり得る。

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