1.はじめに
日本では国際人権の受容、展開は遅れた。世界人権宣言の最も重要な起草者であるルネ・カサンの認知度も低い。
ルネ・カサンと日本の関係を、彼の知人であった国際法学者の斎藤惠彦を中心に整理する。
2.ルネ・カサンと日本の関係
1948年、国連は世界人権宣言を採択した。その重要な起草者は、ルネ・カサンだった。彼は、1942年にカトリックのネオ・トミストのジャック・マリタンが作成した人権宣言案も参考にしていた(小坂田裕子「国際人権法における人間の尊厳(一)ー世界人権宣言及び国際人権規約の起草過程を中心にー」、『中京法学』第46巻1・2号、2012年、p.35)。国際人権法学者の小坂田裕子は、ルネ・カサンはマリタンの思想的影響を受けていたという説を主張している(同上書)。
第二次世界大戦後、カトリックの国際法学者の田中耕太郎は、国際人権に注目した。
田中博士は、戦後いちはやく国際連合憲章と世界人権宣言に注目し、みずからも副署している日本国の新憲法における平和と人権の理念と丁度同じころ生まれた国連憲章および世界人権宣言の理想とが、その基本精神においてまったく一致していることを、その数多くの著書で謳いあげた。
斎藤惠彦『世界人権宣言と現代ー新国際人道秩序の展望ー』有信堂、1984年、p.5。
1951年、国際法学者の田畑茂二郎は『世界人権宣言』(弘文堂)を発表したが、ルネ・カサンには言及しなかった。
1968年、ルネ・カサンはノーベル平和賞を受賞した。
1974年夏、ストラスブールのルネ・カサン記念国際人権研究所で夏期講座が開催された。
またルネ・カサン教授とは一九七四年夏に、ストラスブールのルネ・カサン記念国際人権研究所の夏期講座の折、現東大法学部教授の樋口陽一教授と、K.ヴァザック博士主催の夕食会でお目にかかった。席上、「日本の田中博士はお元気か」と私に尋ねられ、「数年前に死去された」と真実を答えざるをえなかった悲痛な思い出がある。
同上書、p.6。
樋口は日本を代表する憲法学者である。
一九七四年には二度の海外渡航の機会を作って頂きました。日ソ交流計画に基づくレニングラード(当時)大学への派遣(三~五月)と、ストラスブールの人権研究所の夏のセミナー(七月)への研修生としての参加です。この研究所はルネ・カッサンのノーベル平和賞賞金をもとにした財団で、当時健在だった同氏を囲む夕食会に加わる機会もありました。
樋口陽一『環海交流・備忘ー憲法五十年余滴ー』、2011年、p.31。
1982年、ルネ・カサンが在職した国連の人権委員会に、カトリックの緒方貞子が日本政府代表として初めて参加した。
日本は戦争中ずっと人権侵害をしてきたという過去があったと考えられたからだと思いますが、人権委員会の委員国になるのに消極的でした。他国の人権状況を批判することなどできないという感じだったのだと思います。遠慮というか、自信がないというか、躊躇してきたのです。
納家政嗣+野林健編『聞き書 緒方貞子回顧録』岩波書店、 2020年、p.129。
1984年、斎藤は、『世界人権宣言と現代ー新国際人道秩序の展望ー』(有信堂)を公表した。
1988年、国際人権法学会が設立された。
https://www.satoshi-kaneko.com/justice/7181/
冷戦後の1991年、緒方は第8代国連難民高等弁務官に就任した。
1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認した。
1995年、国連は「人権教育のための国連の10年」をスタートした。
1999年、人権擁護推進審議会答申が出された。
https://www.satoshi-kaneko.com/justice/6247/
外務省は人権外交を展開した。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/kyoiku/index.html
しかし、日本国内には人権の普遍性を確認した1993年の世界人権会議以後も、人権、特に国際人権への抵抗勢力も存在した。例えば、2001年、カトリックの英文学者の渡部昇一は「不平等主義」を主張した。
たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである。
渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年pp.45~47。
ルネ・カサンと渡部との関係は確認されていない。また、ルネ・カサンと同一の国連の人権委員会に在職した緒方も渡部も、同一のイエズス会系上智大学に在職した。複数のカテゴリーが重複しても、同一カテゴリーの内的差異は非常に大きかった。「異なるカテゴリー間差異」よりも、「同一カテゴリー内差異」がより大きい場合もあった。
2000年代以降、国内で日本政府は人権教育政策を展開した。しかし、政府の公文書では、国際人権や現代人権の原点で、慣習国際法と評価されている世界人権宣言を起草したルネ・カサンとの関係は確認出来ない。
2002年、日本政府は『人権教育・啓発に関する基本計画』を策定して公表した。
https://www.moj.go.jp/content/000073061.pdf
2025年、日本政府は『人権教育・啓発に関する基本計画(第二次)』を策定して公表した。
https://www.moj.go.jp/JINKEN/JINKEN83/jinken83.html
同年、国際人権法学会の第37回研究大会で、西村泰子外務省総合外交政策局人権人道課長も報告した。
https://www.ihrla.org/assembly/2025programme.pdf
3.おわりに
ルネ・カサンと日本の間の距離は大きい。しかし、斎藤や樋口等のようにルネ・カサンとの日本の接点も存在した。斎藤によれば、『世界人権宣言』の著者である国際法学者の田畑茂二郎や国際人権法学者の高野雄一も国際人権法の発展に関心を持った(前掲、『世界人権宣言と現代』、p.7)。また、「日本人権法グループ」も関係した(同上書、同頁)。
しかし、現在でも日本でのルネ・カサンの認知度は低い。ルネ・カサンの人権思想と日本政府の人権教育政策の関係も不明確であり、「人権文化」の欠如により人権教育が道徳教育等へ矮小化されるリスクがある。また、国内には人権への抵抗勢力も存在して、「人権秩序」の確立が困難である可能性もある。