1. はじめに
国連の世界人権宣言の第1条では、以下のような三つの平等が提示されている。
①「フリーダム(自由)」の平等。
②人間の諸権利の平等。
③人間の尊厳の平等。
同宣言は、普遍主義的「人間」観を採用している。普遍主義的「人間」観とは、<「人間」=理性、良心、友愛の精神を持つ存在>である。「人間」存在(to be/being human)は明確です。ヒトゲノム研究の視点では、人間は「ヒトゲノムを持つ生物学的な意味でのヒト」です。しかし、「人間」と「ヒト」は完全には一致せず、ズレもあります。そうすると①<「ヒト」の「人間」>と②<「人間」でない「ヒト」>の二種類が地球上に存在することになります。
「人間」や「ヒト」には、「男」「女」の性別があります。しかし、「男」「女」に回収出来ない存在もいます。それは「セクシャル・マイノリティ」です。
以上を前提にして本稿では、「日本国民」の女性の”well-being(幸福)”=「wellであること」について考察する。
2. 真の女性の求め
男女関係には、「良好」な場合と「良好」でない場合がある。世界人権宣言第29条を踏まえれば、「良好さ」とは、一つには人権の相互尊重が成立している状態である。
男女関係には、「良好」でない場合がある。それは人権の相互尊重が成立しない場合である。人権を相互尊重しない当時者は、男女ともにある。
その中には、男性が女性の人権を尊重しない場合もある。例えば、「DV(ドメスティック・バイオレンス)」等である。その場合、女性に「トラウマ(心的外傷)」を生成する場合もある。
その場合の女性の応答には、差異やグラデーション等がある。その中には、所謂「フェミニスト」になる場合もある。
日本を代表するジェンダー研究者によれば、「フェミニストは皆トラウマがある」と言う。この証言が「客観的事実」である場合、日本のフェミニストはトラウマがあることになる。これは男性不信の根深い原因にもなる。
あるフェミニストの大学教員は、ある講演会やセミナー等の機会に、率直に「(自分を裏切らない)誠実な男性を求めている」という趣旨の発言をした。恐らく「本音」だと考えられる。事実の場合、それが女性の真の求めだと認識、評価出来る。
3. 女性の真の求めに対する結果としての合理的で必然的な「不幸」
女性が自分の真の求めに誠実でなければ、その求めは合理的に実現しない。それを実現する為には、自分の真の求めに誠実になる必要がある。
もし真の求めに誠実でない場合、合理的に求めは実現しない。これは合理的で必然的な結果である。そこには何一つ矛盾は無い。
真の求めに誠実で無い為に、合理的に必然的に求めは実現しないのである。ある意味で不誠実さの好循環が再生産されているのである。
その結果が反”well-being”である場合、当事者は合理的に必然的に「不幸」になるのである。ここには何一つ矛盾は無い。「客観的真理」の実現でしかない。
4. おわりに
以上を踏まえると、女性が”well-being(幸福)”を実現する場合、自分の真の求めに誠実である必要がある。誠実であるとは、一つには、自分を裏切らない「誠実な男性を求めている」という自らの「必要」に誠実になるということである。
もし求めに誠実でない場合、合理的に必然的に真の求めは実現しない。この場合、最も大切なことは、自らの求めに誠実になることである。
そこで大切なことは、自らの求めへの「素直さ」である。ここから「屈折」したりズラしたりしない、自分の真の求めへストレートな「素直さ」という価値観の大切さを確認出来る。
その「素直さ」とは、女性が”well-being(幸福)”を実現する最大の道である。