1.はじめに
日本の場合、人権の基礎は「人間の尊厳」か「個人の尊重」(個人の尊厳=個人主義)か? 人権の基礎に「人権の尊厳」を定位する必要があるという、スペインのカトリックの法哲学者であるホセ・ヨンパルトの提案を検討する。
2.法哲学者のホセ・ヨンパルトの提案の検討
国連の世界人権宣言(1948年)の第1条では、人権の基礎は「人間の尊厳」として規定されている。
Article 1
All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.
https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
第1条はルネ・カサンが起草したものである。1968年、ルネ・カサンは世界人権宣言の最も重要な起草者と評価され、ノーベル平和賞を受賞した。ネル・カサンはその賞金を基礎にフランスのストラスブールに「ルネ・カサン記念国際人権研究所」を設立した。その「サマー・セミナー」は世界的に知られ、同研究所は国際人権研究の世界的な拠点の一つになっている。しかし、日本ではルネ・カサンの認知度は非常に低い。
他方、日本国憲法(1946年)の第13条では、人権の基礎は「個人の尊重」つまり「個人の尊厳=個人主義」として規定されている。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm
そうすると「人間の尊厳」と「個人の尊厳」の異同が問題になる。
ホセ・ヨンパルトは、人権の基礎に「人間の尊厳」を定位するように日本国憲法を解釈することを提案した。
ヨンパルト教授は、ボン基本法では、ナチス政権下でおこなわれた虐殺に対する反省から国家権力に対抗する「人間の尊厳」が問題とされ、「人格主義」を採用しているのに対して、日本の場合は、新憲法まで存続した「家」制度を否定的契機として「個人主義」をとっており、ボン基本法の人間の尊厳とは異なると述べられる。その上で、「今の日本では何でも個人主義の目で見てしまう」中で、「人間の尊厳」を人権の根底に位置づけた日本国憲法解釈を提案された。
小坂田裕子「国際人権法における人間の尊厳(一)ー世界人権宣言及び国際人権規約の起草過程を中心にー」、『中京法学』第46巻1・2号、2012年、pp.26~27。
「人間の尊厳」と「個人の尊厳」が異なる場合、ヨンパルトの提案は人権の基礎を転換するような提案であると評価出来る。
人権の基礎に「人間の尊厳」が定位されている場合、人権を行使しても「人間の尊厳」の相互尊重は成立する。もし定位されていない場合は、その相互尊重は成立しない。例えば、人権としての「表現の自由」を行使すると、自他の「人間の尊厳」を毀損や破壊する場合もある。
「人間の尊厳」と「個人の尊厳」が互換的で整合的な場合、人権を行使しても「人間の尊厳」の相互尊重は成立する。もし互換的でも整合的でもない場合は、その相互尊重は成立しない。その場合、「個人主義」は「エゴイズム(自己中心主義)」になる。
日本では人権は「エゴイズム」と評価される場合もある。恐らく両者が互換的でも整合的でもない場合、そのように評価される。
人権を行使しても「人間の尊厳」の相互尊重が成立するようにするには、ヨンパルトが提案したように人権の基礎に「人間の尊厳」を定位したり、「個人の尊厳」を「人間の尊厳」と互換的で整合的にする必要がある。
3.おわりに
1999年の人権擁護推進審議会答申でも、「エゴイズム」を基礎にした日本国民の(基本的)人権の濫用が指摘された。現在でもその濫用がある場合、人権の基礎に「人間の尊厳」を定位したり、「個人の尊厳」を「人間の尊厳」と互換的で整合的にする必要がある。そうすれば、人権を行使しても合理的に「人間の尊厳」の相互尊重は成立するようになる。