1.はじめに
本稿では、憲法学者の樋口陽一の日本の自生的秩序の認識を手掛かりに、日本社会の「人権文化」の不在を理論的に可視化し、ドイツの社会学者のウルリッヒ・ベックの「リスク社会」との接続可能性を提示する。
1993年、国連の世界人権会議は「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性を確認した。国連のレベルでは人権は、「特殊的価値観」ではなく「普遍的価値観」である。
その後、日本政府も国連の人権教育政策に応答して、1999年に人権擁護推進審議会答申を出し、答申を基礎に人権教育・啓発政策を展開した。現在もその途上にある。
では法規範とも異なる日本の自生的秩序では、「普遍的価値観としての人権」はどの程度実現しているのか? 国連の世界人権宣言(1948年)の重要な起草者であるルネ・カサンとも交流があった、日本を代表する憲法学者である樋口陽一の認識を手掛かりに検討する。
2.日本の自生的秩序における「普遍的価値観としての人権」の実現ー憲法学者の樋口陽一の認識ー
タテ軸をとれば、他ならぬ日本社会で、 一九四五年を境にして答えは同じでないし、それどころか、今日でもなお、実質上はもとより、建前としての一致すら社会にゆき渡 っているとは断定できない。
樋口陽一「“human rights”と“droits de l’omme”の含意をめぐってー広義の人権と狭義の「人権」ー」、『日本學士院紀要』第57巻第 2号、2002年12月、p.50。
日本の中でも、私の次の世代の研究者の中で、「基本権の基底について」の 「脱道徳論への展開を試み」ようとする提言がある。これは、(「「人欲の解放」としての自由」と対立するー引用者による注)固い人権観を成立させてきた、個人の自立と自律という前提の拘束から解放されたい、という意味を持っている。それが 「人欲の解放」としての自由への先祖返りになってしまわないかどうか、感想を記してしめくくりとしたい。その第一は、議論をしている者たち同士の間では、西欧での問題意識を反映した 「近代疲れ」の感覚が共有されているとしても、議論されている場所の窓の外の世の中で、そもそも 「疲れる」ほどまでに固い人権観が、多少とも実在感のあるものになっているだろうか、という疑いである。第二に、法学、とりわけ実定憲法学は、問題とされている 「近代」から解放されてしまったら、そもそも存立の意味があるのだろうか、という感想である。
同上書、p.61。
樋口は、「議論されている場所の窓の外の世の中で、そもそも 「疲れる」ほどまでに固い人権観が、多少とも実在感のあるものになっているだろうか、という疑いである」と述べている。
樋口は「「人欲の解放」としての自由」と対立する「普遍的価値観」としての「固い人権」観が、「多少とも」日本の自生的秩序で実現しているのかという問題に対して懐疑的であることが確認出来る。通常、その研究テーマは法社会学の研究領域である。日本にも「日本法社会学会」がある。https://jasl.info/
学会誌『法社会学』の掲載論文を検討する必要がある。しかし、樋口は法社会学者ではなく憲法学者であるので、その実証研究まではしていない。
もし樋口が懐疑したように、「「人欲の解放」としての自由」と対立する「普遍的価値観」としての「固い人権」観が日本の自生的秩序で実現していない場合、「特殊的価値観」が支配的であることになる。それを踏まえて日本社会で生きる人間の発想・行動様式(モード/パターン/スタイル)を、次の非対称的な二つの「理念型」で説明する。「理念型(Idealtypus)」とは、ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーが提案した抽象化によって現実をよりよく理解しようとするアプローチの一つである。
①「普遍的価値観」を基礎にした発想・行動様式。
②「特殊的価値観」を基礎にした発想・行動様式。
①を身体化した人間あるいは②を身体化した人間と②を身体化した人間の間では、「普遍的価値観」としての「固い人権」の相互尊重は成立しない。「特殊的価値観」が強制される場合もある。そうすると人権の基礎としての「人間の尊厳」の相互尊重も成立しない。
人権の「行使」は、人権の「濫用」になり、他者の人権を侵害したり、「人間の尊厳」を毀損したり破壊したりする場合もある。しかも、「普遍的価値観」ではなく「特殊的価値観」を身に付けているため、理性的に主観と客観、自分と他者等を識別せず、果てしなく「誤認」「錯覚」するために認識が「客観的真理」(ユネスコ憲章)に到達せず、「良心」を基礎にした「罪の意識」もなく、理性的に自分自身を反省しないため、合理的根拠も無く「被害者」という自己意識を持つが「加害者」という自己意識を殆ど/全く持たず、他者の人権や「人間の尊厳」の侵害、毀損、破壊し、「生活習慣」化している場合はそれは(準)永続化し、他者への配慮もなく「エゴイズム(自己中心主義)」を貫徹しようとする場合もある。
「生活習慣」は、フランスの社会学者のピエール・ブルデューが提示した「ハビトゥス(知覚・評価システム)」の視点からも説明出来る。また、「エゴイズム」の貫徹は、樋口が言う「「人欲の解放」としての自由」とも関係する。
その場合、日本の自生的秩序は、「普遍的価値観」としての人権が実現した「フリーな社会」ではない「リスク社会」になる。「リスク社会」と「人権文化」を基礎にした「人権秩序」や「フリーな社会」は対立するので、異なる複数の人間同士の価値観の対立や摩擦や衝突を発生させる可能性もある。その場合、「共生」とは異なる「棲み分け」等も「必要悪」かも知れないが必要な可能性もある。
3.おわりに
日本政府は、国際人権規約(1966年)の個人通報制度や「パリ原則」に対応した独立した人権救済制度を整備していない。しかし、1999年の人権擁護推進審議会答申以降、「人権教育・啓発」に重点を置いて人権政策を展開している。しかし、憲法学者の樋口の認識を手掛かりにした場合、日本の自生的社会秩序では、「普遍的価値観としての人権」が実現せず、多くの日本国民の「生活世界」では人権の相互尊重や「人間の尊厳」等が成立せず、差異がある複数の人間の共生が困難/不可能であるため「棲み分け」が必要な「リスク社会」化している可能性もある。
ドイツの社会学者のウルリッヒ・ベックは、「再帰的近代化」論を基礎にして「リスク社会」論を主張している。日本語訳されているベックの著書としては、ウルリッヒ・ベック[山本啓訳]『世界リスク社会』(法政大学出版局、2014年)。ベックの「リスク社会」論の解説書としては、伊藤美登里『ウルリッヒ・ベックの社会理論ーリスク社会を生きるということー』(勁草書房、2017年)がある。
日本社会もベック的な「リスク社会」化しているという主張もある(例えば、ウルリッヒ・ベック+鈴木宗徳+伊藤美登里編『リスク化する日本社会ーウルリッヒ・ベックとの対話ー』岩波書店、2011年。鈴木宗徳『個人化するリスクと社会ーベック理論と現代日本ー』勁草書房、2015年等)。
本稿が提示した自生的秩序で「普遍的価値観としての人権」が実現しない「リスク社会」説と自己破壊的「近代化」論としてのベックの「リスク社会」論は問題設定が異なるが、両者の比較は今後の課題になる。
また、自生的秩序の「リスク社会」化を回避して日本社会で「人権秩序」を確立するためには、政策や制度の整備だけでは十分ではなく、国民の「生活習慣」や「ハビトゥス」とも密接に関係する「人権文化」の形成や発展が不可欠だろう。その場合、特に国際人権基準の「人権教育」が重要になる。その際、世界人権宣言の重要な起草者で、1968年にノーベル平和賞を受賞したルネ・カサンの人権思想を明らかにして、「普遍的価値観としての人権」を日本社会でも定着出来るように再構築することも重要な課題だろう。