1.はじめに
米ソ冷戦期には人権は「西側の価値観」とされた。しかし、冷戦後の1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認し、脱「西側の価値観」化した。
しかし、第二次世界大戦後の世界人権宣言以降も人権の「普遍性」は批判されて来た。ではどのように批判されたか?
2.人権の「普遍性」に対する批判
(1)人類学界の文化相対主義
(a)アメリカ人類学会の国連の世界人権宣言への声明
1. The individual realizes his personality through his culture, hence respect for individual differences entails a respect for cultural differences.
2. Respect for differences between cultures is validated by the scientific fact that no technique of qualitatively evaluating cultures has been discovered.
3. Standards and values are relative to the culture from which they derive so that any attempt to formulate postulates that grow out of the beliefs or moral codes of one culture must to that extent detract from the applicability of any Declaration of Human Rights to mankind as a whole.
American Anthropological Association (AAA), “Statement on Human Rights” ,1947. https://humanrights.americananthro.org/1947-statement-on-human-rights/
(2)日本の「押し付け憲法」論
(a)「押し付け憲法」論の第1次資料
(b)憲法学者の樋口陽一の説明
「押しつけられた憲法」ということをいう人びとは、直接的には、手続き上の押しつけを問題にします。占領下での占領軍の強い示唆のもとにつくられた、これはまさに事実ですから、そのことをとりあげるのです(後略)
樋口陽一『ほんとうの自由社会とはー憲法にてらしてー』岩波書店、1990年、p.56。
(3)マルクス(主義)のブルジョワ・イデオロギー論
(a)マルクスのブルジョワ・イデオロギー論の第1次資料ー『資本論』ー
(b)世界人権宣言以降のマルクス主義者のブルジョワ・イデオロギー論の第1次資料
(c)社会学者のスティーヴン・ルークスのマルクス主義と人権の両立不可能論
この場合、わたしが理解するかぎりでは、マルクス主義の正典には、人権を擁護するための論拠が用意されていないのだ。それどころか、われわれが 以下のトロッキーの主張に従うとすれば、マルクス主義の正典は、人権の擁護に反対する論拠さえ与えることになる。そのトロッキーの主張とは、 (1)重要な境界線は、平和的な階級闘争と革命とのあいだには引くことができない、しかも(2)共産主義社会へと至る途は、革命的な手段、つまり 暴力的な手段による以外にはない、というものである。
(中略)
以上〔の分析〕から、わたしの結論は以下のようになる。マルクス主義者は先に示した意味において、人権を信奉できない。それゆえに、人権を信奉する誠実で率直なマルクス主義者の多くは、 人権の信奉と両立しないマルクス主義の正典の核心にある諸教義を破棄ないし放棄した修正主義者でのみありうるのである。
スティーヴン・ルークス[中島吉弘訳]「マルクス主義者は人権を信奉できるか Can a Marxist Believe in Human Rights?」、『長野大学紀要』第15巻第4号、1994年、p.148。
マルクスの「ブルジョワ・イデオロギー」批判の対象は、世界人権宣言ではなく、フランス人権宣言である。従ってその批判は世界人権宣言には妥当しない。
第二次世界大戦後のマルクス主義者が、マルクスの「ブルジョワ・イデオロギー」論で世界人権宣言以降の国際人権を批判した場合、その批判は妥当しない。
(4)日本の人権のイデオロギー的偏向受容論ー「人権の政治化」ー
(a)人権のイデオロギー的偏向受容論の第1次資料
(b)日本人権教育研究学会の創設の趣意(2001)の場合
わが国の人権発展の歴史を顧みるとき,政治的・宗教的な各種イデオロギーの影響を少なからず蒙ってきたことは否定できない。こうした状況の中で,政治やイデオロギーにとらわれない,普遍的な人権教育研究を目指し,大学関係者,現場教戦員, NGO関係者などが相互交流を行ない,人権教育全体を統合するような理論を構築し,人権教育に関する実証的・実践的研究を体系化することが緊急の課題とされている。
藤井徳行「2 1世紀の人権」、『人権教育研究』第1号、日本人権教育研究学会、2001年。
(5)日本文化特殊論
(a)日本文化特殊論の第1次資料
(b)憲法学者の樋口陽一の説明
「日本は日本」でいいのに、西洋生まれの個人の尊厳とか思想・良心の自由とか、信教の自由というふうなものは日本にとってはもともと迷惑なのだ、という見地です。そこまではっきりいうかいわないかは別にして、はっきりいっている論客もありますが、単なる手続き論的な押しつけ論をこえたそのような反応が、かなりの程度日本社会の政治リーダー、あるいは現在オピニオン・メーカーの役を演じている人びとのなかにありそうです。
樋口陽一『ほんとうの自由社会とはー憲法にてらしてー』岩波書店、1990年、p.56。
(6)アジア的価値論
(a)アジア的価値論の第1次資料ーリー・クアンユー元シンガポール首相の声明等ー
(b)リベラル派厚生経済学者のアマルティア・センのアジア的価値論の説明
人権の考え方は本当にそれほど普遍的なのだろうか。儒教文化の世界のように、権利よりも規律を、エンタイトルメント[請求]よりも忠誠に焦点を当てる倫理はないのだろうか。人権が政治的自由と市民的権利の要求を含む限り緊張をはらむのであり、そうして緊張の存在は特にアジアの論客が認めてきたところである。
アジア的価値の性質は近年、アジアにおける権威主義的な政治体制を正当化するためにたびたび口にされてきた。
アマルティア・セン[石塚雅彦訳]、『自由と経済開発』日本経済新聞社、2000年、p.264。原書は1999年。
(7)文化的帝国主義論
(a)文化的帝国主義論の第1次資料
(b)憲法学者の樋口陽一の説明
「人権の押しつけ」を非難する声は、「背に腹はかえられぬ」という消極的な弁明の文脈で出て来るだけではない。もっと積極的に、<西欧生まれの人権や自由の押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。
樋口陽一『自由と国家ーいま「憲法」のもつ意味ー』岩波新書、1989年、p.201。
(8)人権の理念が見えない個別的人権課題毎による予算の奪い合いによる人権の「普遍性」の分解論
(a)第1次資料
(b)包括的人権教育学者の証言
3.おわりに
人権の「普遍性」への批判には、様々なバリエーションがある。
現在、権威主義、侵略主義、極右政党の台頭等を背景に、再び人権の「普遍性」は揺らいでいる。日本では人権の普遍性への真正面からの批判は殆ど見られない。
しかし、人権を中心価値とする国連のSDGsも「環境」問題に偏向的に受容される傾向がある。実質的に人権の「普遍性」の空洞化を招来する可能性はある。
その場合、「人権文化」を基礎にした「人権秩序」の確立も難しくなる可能性がある。