1.はじめに
1993年、国連は世界人権会議で「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性を確認し、人権政策を人権教育に重点を置いて展開した。1993年以降、国連のレベルでは人権は「普遍的価値」である。
その後、日本政府も人権教育政策を展開している。その基礎の一つは、1999年の人権擁護推進審議会答申である。しかし、国連の人権基準を基礎にした場合、現在の日本の人権に関する政策や制度は不完全である。恐らくそれらを完全化する必要がある。しかし、人権政策・制度によっては改革出来ない次元もある。その一つは「文化」の次元である。
他方、国内には人権に対する単一あるいは複数の個人や集団から構成された「抵抗勢力」も、複数の形態で存在して来たし、恐らく現在も存在する。
「抵抗勢力」は二つに分類出来る。
①意識的な「抵抗勢力」。
②無意識的な「抵抗勢力」・・・主観的には自分自身を「抵抗勢力」と認識していないが、客観的には「抵抗勢力」として生きている。
「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは?
2.「普遍的価値観」としての人権に対する「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは?
「抵抗勢力」の典型像とは?
①「普遍的価値観」としての人権が実現していない自生的秩序に、「声」を挙げたりして抵抗せず、順応して生きている。
②実質的に人権基準、特に国際人権基準の「教育」を「子ども」(18才未満の人間)の時にに受けずに「成人」や「大人」(18才以上の人間)として生きている。高学歴の中にも実質的に「教育」を全く受けていない人間はいる可能性はある。しかし、実証する必要がある。
日本は北海道から沖縄県までの都道府県から構成されるが、国内には都道府県とは異なる領域もある。その領域は、人権の視点から二つに分類出来る。
①人権が適用されている領域。
②人権が適用されない領域。
更に②の人権が適用されない領域は、「部分社会」論の視点から二つに分類出来る。「部分社会」論とは、司法権力が「自治能力」がある中間集団を人権規定の適用対象から合法的に外す司法判断の法理である。
①「部分社会」・・・人権を適用されない公式な領域。例えば、「大学」等のような「学校」や宗教教団等(例えば、富山大学事件)。
②非「部分社会」・・・人権が適用されない非公式な領域。
「部分社会」も、「自治能力」の視点から二つに分類出来る。
①「自治能力」がある「部分社会」。
②「自治能力」がない「部分社会」・・・秩序を構成する「自治能力」がないので「部分社会」は内部崩壊する。
1998年、世界的な経済学者である宇沢弘文は、実質的に1990年代の日本の「学校教育制度」を②「自治能力」がない「部分社会」の一つであると指摘した。
日本の教育は今、全面的危機といってよい状況におかれています。(中略)日本中いたるところで、日本の初等中等教育制度の矛盾が大事な子どもたちを犠牲にしています。
宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年、p.1。
日本の高等教育制度もまた多くの矛盾をはらみ、日本の将来を極端に暗い、陰鬱なものとしています。オウム真理教という宗教団体に入って、史上まれにみる残虐で、陰惨な犯罪行為に加担した若者たちの多くが、東京大学、京都大学、慶応義塾大学をはじめとして、かつては、この国の中心的な、主導的役割をはたしてきた大学の学生であるという事実ほど私たちの心を痛めるものはありません。
同上書、pp.1~2。
日本社会のおかれている状況は、その深刻さ、及ぼす範囲の広さという点から、ヴェトナム戦争下のアメリカ社会に比較する術もありません。しかし、日本の経済・社会を構成する基本的なファイバーの中心がぼろぼろになって、倫理的規範が崩壊し、社会的靭帯が損壊しつつあるのではないかという危惧をもたざるを得ません。このことは、日本における学校教育制度の全般的危機となって現れています。
同上書、pp.2~3。
当時の宇沢は、日本社会での「倫理的規範」「崩壊」と「社会的靭帯」「損壊」を「危惧」した。しかし、宇沢は実証しなかった。
それらを示唆する一つのサンプルとして、大学教員でカトリックの英文学者である渡部昇一による人権としての(主観的には不明だが客観的には恐らく「学問の自由」ではない」)「表現の自由」の行使(濫用?)の一つの現実を提示する。
たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである。
渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年pp.45~47。
現在、文部科学省は歴史的には所謂「社会構造」では説明が困難である特定の領域や場所での高度な相対的自律性である「大学の自治」があり、「自治能力」があるという理由等によって「部分社会」として司法判断されて来た大学に、学生の「安全」の確保を要請している。その背景には、日本の大学での「アカデミック・ハラスメント」等の問題の顕在化がある可能性もある。現在、その問題に対して日本大学法学部等は「人権侵害」と認識、評価した上で法的に応答している。
日本の「部分社会」のような領域は、外国にもある。例えば、カナダの「自治州」である。「自治州」には、カトリックと重複するフランス語圏であるケベック州がある。「自治州」でも、恐らく「少数文化」(所謂「マイノリティ」)の保護を主な目的として、日本の「部分社会」のように憲法の人権規定の適用が合法的に制限されている。
「抵抗勢力」の典型像とは、人権基準の「教育」を受けずに、自生的秩序に抵抗せず順応して生きている個人や集団である。「抵抗勢力」は、公式/非公式に人権が適用されない領域の場合、客観的に人権に抵抗しながら生き続ける。
「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは?
「文化」とは日本語である。一般的には英語の“culture”は「文化」と日本語訳される。しかし、厳密には日本語の「文化」と英語の“culture”の意味内容は、完全には一致しない。
①日本語の「文化」・・・日常語としての広い意味。価値判断を含まない。
②ユネスコ基準の“culture”・・・人権と両立する「文化的多様性」。例えば、人権と両立する “customs ”、“ ways of life”。
③「文化的差異」・・・人権と両立しない “customs ”、“ ways of life”等。
ユネスコ憲章の“culture”の概念規定とは?
相互のcustomsとways of lifeを知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
https://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm
“culture”の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
https://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm
①相互の“customs”や“ways of life”の無知が戦争の原因であること。
②「“culture”の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育」は不可欠であること。
しかし、ユネスコ憲章は「“customs”や“ways of life”=“culture”」とは主張していない。そうすると“customs”や“ways of life”は、二つに分類出来る。
①“culture”と両立する風習、生活。
②“culture”と両立しない風習、生活。
ユネスコ憲章では、“culture”自体は概念規定されていないが、「正義・自由・平和」と両立するものとされている。
2001年、ユネスコは総会で「文化的多様性に関する世界宣言」を採択した。
「文化的多様性」とは?
第1条 時代、地域によって、“culture”のとる形態は様々である。人類全体の構成要素である様々な集団や社会個々のアイデンティティーは唯一無比のものであり、また多元主義的である。このことに、文化的多様性が示されている。生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、主張されるべきである。
https://www.mext.go.jp/unesco/009/1386517.htm
①“culture”の形態は、時代、地域によって差異がある。
②文脈的には、“culture”と「人類全体の構成要素である様々な集団や社会個々のアイデンティティー」は関係している。
③「人類全体の構成要素である様々な集団や社会個々のアイデンティティー」は「唯一無比」である。
④「文化的多様性」は「多元主義的」である。
⑤「文化的多様性」と「多元主義」は厳密に概念規定されていない。
⑥「文化的多様性」は「多元主義」と同一視されている。
しかし、ユネスコ基準の「文化的多様性」とは人権と対立せず両立するものである。
第4条 文化的多様性の保護は、人間の尊厳への敬意と不可分の倫理的急務である。文化的多様性の保護とは、特に少数民族・先住民族の権利などの人権と、基本的自由を守る義務があることを意味している。何者も文化的多様性を口実として、国際法によって保障された人権を侵したり人権を制限したりすることがあってはならない。
https://www.mext.go.jp/unesco/009/1386517.htm
しかし、ユネスコ基準は、「政治的配慮」の重視等によってユネスコ自体の世界遺産政策に厳密に適用されていない可能性もある(ユネスコにおける宣言と政策の実践の間の差異の問題性)。世界遺産政策の思想的背景には、「日本国民のユネスコ関係者」である服部英二がいる。国連の人権との関係も問題になり得る。
「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは、日本語の「文化」である。ユネスコ基準の“culture”とは、人権と両立する「文化的多様性」である。例えば、人権と両立する “customs ”、“ ways of life”である。日本語の「文化」とユネスコ基準の“culture”は一致する場合と一致しない場合がある。後者の「文化」とは、人権と両立しない「文化的差異」である。例えば、人権と両立しない “customs ”、“ ways of life等”である。
「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは、人権と両立しない「文化的差異」である。
3.おわりに
政府の政策や制度でも制御が困難/不可能な次元の一つは、「文化」の次元である。人権に対する国内の「抵抗勢力」の典型像の「文化」とは、ユネスコ基準の「文化的多様性」ではない人権と両立しない「文化的差異」である。
しかし、「抵抗勢力」は、人権としての「表現の自由」を行使して、「文化的差異」を「文化的多様性」と表現し主張する場合もある。また、人権としての「信条の自由」を行使して、人権と両立しない「文化的差異」を「文化的多様性」と信じる場合もある。
しかし、客観的にユネスコ基準で識別した場合、「抵抗勢力」の典型像が表現、主張する「文化的多様性」は人権と両立しない「文化的差異」である。
抵抗勢力の典型像の「文化」の次元の改革としては、「人権教育」を不可欠な構成要素とする人権基準、特に国際人権基準の「教育」が重要だろう。