1.はじめに
カトリックの「宗教の自由」の行使は国際人権と両立するのか、対立するのか?
2.カトリックの「宗教の自由」としての「洗礼」の二類型
カトリックの「宗教の自由」の行使は、「洗礼」である。洗礼には二類型ある。
①幼児洗礼・・・生後まもない乳幼児に対して授けられる洗礼であり、「原罪からの解放」と「キリスト教共同体への加入」を意味する秘跡。
②「幼児洗礼」以外の洗礼。
幼児洗礼は、子どもの権利条約の「子どもの権利」と対立しない。同条約第14条第2項では、「親は子どもの宗教教育を導く権利と責任を持つ」とされ、親の宗教教育権が保障されている。
3.「幼児洗礼」以外の洗礼の二類型ー①「ルサンチマン」と②非「ルサンチマン」ー
「幼児洗礼」以外の洗礼は、①「ルサンチマン」化と②非「ルサンチマン」化に類型化出来る。
「ルサンチマン」とは、ドイツの哲学者のフリードリッヒ・ニーチェが提示した哲学的概念である。
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨念 Ressentiment)そのものが創造的となり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる。
フリードリッヒ・ニーチェ[信太正三訳]『ニーチェ全集Ⅱ 善悪の彼岸 道徳の系譜』ちくま学芸文庫、1993年、p.393。
この地上で<高貴な者>・<権勢家>・<支配者>・<権力者>に歯向かってなされたいかなることも、ユダヤ人がこれらの者に反抗してやらかしたことに比べれば、言うにもたりないものである。僧侶的民族であるあのユダヤ人は、おのれの敵対者や制圧者に仕返しするのに、結局はただこれらの者の諸価値を徹底的な価値転換によってのみ、すなわちもっとも精神的な復讐という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。
フリードリッヒ・ニーチェ[信太正三訳]『ニーチェ全集Ⅱ 善悪の彼岸 道徳の系譜』ちくま学芸文庫、1993年、p.388。
その後、ドイツの哲学者で哲学的人間学者やであるマックス・シェーラーは、ニーチェのルサンチマン説を批判的に継承し、カトリック的「ラブ」をルサンチマンではないと主張した。
もし理念のレベルでは、カトリック的「ラブ」はルサンチマンではない場合でも、現実のレベルではルサンチマンになる場合もある。従ってカトリック信徒の生の事実は、ルサンチマンと両立し一致する場合もある。
特に洗礼の動機が、劣等感から解放されるための既存の価値観の転倒である場合、ルサンチマン説が強く妥当する。
その後のカトリック信仰は、理論的にはルサンチマンであり続ける場合とカトリック的「ラブ」へ成熟される場合がある。しかし、現実的にはルサンチマンから脱却するのは難しいと考えられる。
しかも、カトリックのルサンチマンが心理内容内に止まらず、社会化、政治化して、他者や社会にも影響を与える場合、日本国憲法の「公共の福祉」や国連の世界人権宣言第29条や国際人権条約の「公共的秩序」と対立し破壊する場合もある。
4.おわりに
幼児洗礼は国際人権と両立する。非「幼児洗礼」は、「ルサンチマン」化する場合がある。「ルサンチマン」化しそれが社会化、政治化する場合、憲法や国際人権と対立し破壊するリスクがある。