1.はじめに
1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性等を(再)確認した。
その後、教育学者、カトリック、国連・ユネスコは「コンパッション」も強調し始めた。
「コンパッション」とは? 「共感」との違いとは? その強調の意味とは?
2.「コンパッション」の辞書の定義
「コンパッション」とは、英語では“compassion”である。“compassion”とは、「あわれみ」、「思いやり」、「同情」等を意味する(『リーダー英和辞典[第3版]』研究社、2012年)。「慈悲」という意味もある。
「慈悲」とは、①仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむ心。一説に、衆生に楽を与えること(与楽)を慈、苦を除くこと(抜苦)を悲という。②いつくしみあわれむ心。なさけ。慈悲心(『広辞苑[第7版]』岩波書店、2017年)。
3.教育学者の堀尾輝久の「教養」の再定義(1997年)ー「コンパッション」の導入ー
民衆が知をもち、そしてそれを力とすること(民衆の力=デモクラシー)ができるかどうかが民主主義の成否をきめる。教養(文化)の質の問題にもかかわる。それは単に認識の世界を広げるという問題ではなく、感性のレヴェルでの人の痛みや悲しみを共有するというコンパッションを含んで教養というものをとらえなおすことが求められている。それは民衆の教養は、「人と人をつなぐもの」といわれるが、それは個別の認識を通してつなぐ(conscience)だけではなく、まさに個別のものをいつくしむ感性を通して、あるいは人間的なふれあいを通して、苦しみを共有する(com・passion)ということを含んでの教養の問題が問い直されているのではないだろうか。
堀尾輝久『現代社会と教育』岩波新書、1997年、序章、p.24(序章=①「教育と歴史意識」、『教育』、1997年5月号+②カルフォルニア大学バークレー校講演「戦後日本教育の回顧と展望」、1997年5月の合成)。
4.カトリックの“Being”ーイエズス会系大学の学生養成の四方針の一つ(2013年):「あわれみ深い(comassionate)」ー
冷戦期の1984年、バチカン教理聖省は『解放の神学の一局面に関する指針』で、マルクス主義的な「解放の神学」を批判した(関望+山田経三「訳者あとがき」、グスタボ・グティエレス[同訳]『解放の神学』岩波書店、2000年)。
冷戦末期の1987年、同省はInstruction on Christian Freedom and Liberationで、クリスチャンの「フリーダム(≒「自由」)」と「リベレイション(解放)」の理念を提示した(邦題は『自由の自覚ーキリスト者の自由と解放に関する教書ー』)。
冷戦後の1991年、ヨハネ・パウロ二世は回勅『新しい課題』で、“being”を重視した上で、市場経済の公正化へオリエンーテーションした。ヨハネ・パウロ二世のアドバイザーは、世界的な経済学者の宇沢弘文である。
よりよく暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、「あること、生き方」(being)よりも「持つこと、所有」(having)をめざすことが、よりよい暮らしにつながると決めてかかる生活様式であり、よりよく生きるためではなく、快楽を人生の目的とし、快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです。それゆえ、真、理、美、善を求め、隣人との交わりのうちにともに成長することを求めることこそが、消費者の選択、貯蓄、投資の決定要素となるような生活様式を生み出すことが必要です。
教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題―教会と社会の百年をふりかえって―』カトリック中央評議会、1991年、P.77。
マルクス主義の解決策は失敗に終わりましたが、周縁化(marginalization)と搾取の現実は世界に、特に第三世界に残っており、同様に人間疎外の現実もとくに先進国において残っています。このような現象に対して教会は強く抗議しています。
同上書、p.88。
市場経済の公正化は、現在の国連の「人権デュー・ディリジェンス」に先行する。
1993年、コルベンバッハイエズス会元総長は、イエズス会の教育目的を次のように提示した。
イエズス会の教育の目的とは、他者のための人間、有能で、自覚ができ、あわれみ深く献身する人間の養成です。
Perter-Hans Kolvenbach,Ignatian pedagogy,Villa Cavalletti,1993.イエズス会本部・社会正義とエコロジー事務局[イエズス会社会司牧センター訳]『特別文書 イエズス会の大学における正義の促進』イエズス会日本管区、2015年、p.25。
それを受けて2013年、イエズス会本部・社会正義とエコロジー事務局は『特別文書 イエズス会の大学における正義の促進』を発表した。
あわれみ深い(comassionate) 人々は、他者の必要としているものに気づき、それに応える感受性を持っています。そのようにして、他者にとっての兄弟姉妹となり、自らの存在を変革していくのです。彼らは他者に対する責任を感じ、他者の人生を愛し、その喜びを祝い、困窮を和らげ、希望を生み出しながら、他者とつながります。
同上『特別文書 イエズス会の大学における正義の促進』、p.26。
5.国連とユネスコのEducation for sustainable development: a roadmap(2020年)ー“compassion”の強調ー
1948年、国連は世界人権宣言を採択し、“All human beings”の「人」権を提示した。その際、普遍主義的「人間(human being)」観が重視された。
すべての人間(All human beings)は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない。
https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html
1972年、ユネスコはLearning to Be: The World of Education Today and Tomorrow(フォール報告書)を発表し、“to be”の学習を重視した。世界人権宣言の“human being”とユネスコの“to be”は対応している。前述したように1991年、ヨハネ・パウロ二世も、回勅『新しい課題』で“being”を重視した。ユネスコの“to be”とヨハネ・パウロ二世の“being”は対応している。
1997年、ユネスコのバレンシア・シンポジウムのキーワードは「コンパッション」だった。
バレンシアで最も多くの発表者の口に上ったのは、Compassionであった。リチャード・フォークは最終日の講演を「未来はコンパッションの回復にかかっている。コンパッションによる政治、それによって立つ国家が、コンパッションネイト・グローバリゼーションを可能にする。そのとき初めて地球環境も守られる」と結んだ。パトスを共にする、という意味のこの言葉は、「痛みの分かち合い」を意味し、共感Sympathyより強い。
服部英二『地球倫理への旅路ー力の文明から命の文明へー』北海道大学出版会、2020年、p.58。
2020年、国連とユネスコは、ESD for 2030で次のように「コンパッション」を強調した。
17 One does not necessarily go through the stages of transformation (awareness, understanding of complexities, empathy, compassion, empowerment) in a linear fashion. Stages can be skipped with individuals moving from, say, the first factual stage, directly to the final stage of empowerment. There can also be cases where individuals start with empathy or compassion, and only later on approach the matter with cognitive awareness, instead of starting with the awareness stage. The process and the pace at which individuals go through these stages can also vary.4. Required reflections4.1 Transformative action: How to encourage learners to undertake transformative actions for sustainability has been a major preoccupation for ESD. The symposium series, held from 2016 to 2018 around the world in preparation of this document, revealed a few important insights into how transformative actions take place.4.2 First of all, transformation necessitates, among other things, a certain level of disruption, with people opting to step outside the safety of the status quo or the “usual” way of thinking, behaving or living. It requires courage, persistence and determination, which can be present at different degrees, and which are best sourced from personal conviction, insight, or the simple feeling of what is right.4.3 Second, there are different stages of transformation. With the acquisition of knowledge and information, learners come to be aware of the existence of certain realities. With critical analysis, they begin to understand the complexity of those realities. An experiential exposure to the realities provides them with a deeper connection with the issues, which can also lead to an empathic connection to those affected by the said realities. Empathy can turn into compassion if the exposed realities bear relevance to the learners’ own lives and their sense of identity. A tipping point arrives where a compassionate mind is set on the path of empowerment.174.4 The pedagogical implications of this understanding are many and various.
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000374802.locale=en
6.ESD for 2030(2020年)の「コンパッション」強調に対する日本の評価の一事例ー焦点のより「本質的問い」への移行ー
またESD for 2030の中でも特に、「共感」、「慈愛」というキーワードが多く盛り込まれていることからも、持続可能な開発の趣旨も、限りある地球環境の生態系を維持しながら、人間の生活の質を改良する、といったより本質的な問いに焦点が移っていったものと考えられる。
田瀬和夫+SDGsパートナーズ『SDGs思考 社会共創編ー価値転換のその先へ プラスサム資本主義をめざす世界ー』インプレス、2022年、第9章(木村真実)、p.438。
7.おわりに
堀尾もカトリックも国連やユネスコも人権を重視するが、1990年代以降、“compassion“も強調された。
ESD for 2030では、“compassion“と”empathy”は区別して使用されている。”empathy”とは、「感情移入」や「共感」を意味する(前掲『リーダーズ英和辞典』)。“compassion“は、「共感」ではなく、「あわれみ」、「思いやり」、「同情」、「慈悲」を意味する。
人権の哲学的正当化としては、「自然本性的構想」と「政治的構想」が対立競合している。“compassion”は、個人の内的経験や苦痛への感受性を基礎に置く点で、「自然本性的構想」に近い。しかし、国連・ユネスコが示すように、“compassion”は個人の内的感情にとどまらず、社会的・政治的行動(empowerment)へと接続される。
この点で、“compassion”は「自然本性的構想」と「政治的構想」の双方を媒介しうる概念であり、両構想の対立を部分的に架橋する可能性を持つ可能性がある。
それを重視した場合、世界人権宣言を第一段階、世界人権会議を第二段階とすると、現在、人権は第三段階に移行し始めているのか。
<参考文献>
木山幸輔『人権の哲学ー基底的価値の探究と現代世界ー』東京大学出版会、2022年。
服部久美恵「人権」、宇野重規+加藤晋+井上彰編『リベラリズム—基礎からフロンティアまで—』東京大学出版会、2026年。