人権の普遍性の視点から社会移動による「アイデンティティ」破壊効果を「人権問題」として再定義するー適切な応答=人権と整合的でない「ルサンチマン」/整合的な「ラブ」?ー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議で「ウィーン宣言及び行動計画」を採択して、人権の普遍性、相互不可分性、相互依存性、相互関連性を(再)確認した。その後、国連は人権政策を展開し、日本政府もリアルタイムで応答し、現在に至る。

1.はじめに  1989年、米ソ冷戦が終結、1993年、国連は世界人権会議で「ウィーン宣言及び行動計画」を採択して、人権政策を展開し...

 国連の人権政策を受けて、本稿は社会空間上の人間の移動が招来する「アイデンティティ」の混乱、危機、破壊は深刻な「人権問題」として再定義する。その上でその「人権問題」へ適切にどう応答する必要があるか? 特定の (政治的)「イデオロギー」か宗教か? 換言すれば、人権と整合的でない「ルサンチマン」か人権と整合的/整合性がある「ラブ」か? 人権と整合しない不適切な応答は、世界人権宣言第29条を破壊するか?

世界人権宣言第29条

1. 全ての者は、パーソナリティを可能な限り自由で十全に発達(development)出来るコミュニティにだけ義務(duties)を負う。

2. 全ての者は、自己の権利及びフリーダムズの行使に当たって、他の者の権利及び自由の正当な承認(recognition)及びリスペクトを確保すること並びに、民主社会の道徳(morality)、公共的秩序(public order)及び一般的福祉(general welfare)の正当な要求を満たすことを専ら目的として法により定められた制限にのみ服する

3. これらの権利とフリーダムズは、国連の目的と原理に反す場合は行使出来ない。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

 人権アーキテクトの立場から同問題を検討する。人権アーキテクトとは、日本で「人権文化」を基礎に「人権秩序」を確立することを使命とする新しい役割である。

1. はじめに  筆者は「人権アーキテクト」を目指している。しかし、日本には「人権アーキテクト」という職業は存在しない。海外にも近い...

2.社会空間上の移動が招来する「アイデンティティ」の問題状況への既存の応答の類型化

(1)社会空間上の移動が招来する「アイデンティティ」の問題ー各専門家の問題認識の紹介ー

 社会空間上の人間の移動が招来する一つの否定的効果は、「アイデンティティ」の混乱、危機、破壊である。1960年代にエリック・エリクソンが「アイデンティティ」概念を提示して以降、その混乱、危機、破壊は、発達心理学的に「青年期」の心理内容の特徴として説明されて来た。しかしそれは、発達心理学以外の人文科学、人間科学、社会科学等でも説明出来る。

1.はじめに  国連の世界人権会議(1993年)における人権の普遍性の確認に対しするへ人間の「アイデンティティ」の破壊の位置とは? ...

 1989年、「戦後教育学のリーダー」堀尾輝久は、能力主義的移動の分極化効果と「人格」破壊効果を警告した。

 友人を蹴落としてすすむ競争体制のなかで、他人の喜びや悩みに共感する能力、あるいはやさしさや思いやりに欠けた人格になっている場合が多いのです。できない子だけが不幸になるのではなく、できる子もまた不幸な状況になっているのです。

堀尾輝久『教育入門』岩波新書、1989年、p.88。

 堀尾の警告は、所謂「一流大学」にも妥当した。1988年、遠藤康夫東大保健センター長(内科)と山田和夫同大保健センター副長(精神科)は対談し、東大進学生の「準神経症」問題を指摘した。

 今問題になっているのは(中略)神経症というよりも準神経症、パラノイローゼといったものです。(中略)端的に言うと、それは受験勉強の時間が長すぎたからなんです。(中略)多分彼らの大学入学以前の自信の中核は勉強ができるという点にあったのでしょう。ところが東大ではそれが相対化されてしまって支えにならない。そして、その自信を喪失したところへ何かひき金があると、無気力に、つまりアパシー退却をしてしまう。(中略)「卒論アパシー」というのがあるんですよ。(中略)これとならんで「ふれあい恐怖」というのがあるんですよ。例えばゼミとかで、授業中は熱心に参加できるんだけれどもその後の雑談やコンパは苦手だという。(中略)孤立してしまうケースとしては地方の秀才が一番危ない。

「対談 憂鬱な東大生」、『東京大学新聞』第1578号、1988年4月5日。

 1998年、経済学者の宇沢弘文は、日本の学校と社会の危機を警告した。

 日本の教育は今、全面的危機といってよい状況におかれています。(中略)日本中いたるところで、日本の初等中等教育制度の矛盾が大事な子どもたちを犠牲にしています。(中略)日本の高等教育制度もまた多くの矛盾をはらみ、日本の将来を極端に暗い、陰鬱なものとしています。オウム真理教という宗教団体に入って、史上まれにみる残虐で、陰惨な犯罪行為に加担した若者たちの多くが、東京大学、京都大学、慶応義塾大学をはじめとして、かつては、この国の中心的な、主導的役割をはたしてきた大学の学生であるという事実ほど私たちの心を痛めるものはありません。(中略)日本社会のおかれている状況は、その深刻さ、及ぼす範囲の広さという点から、ヴェトナム戦争下のアメリカ社会に比較する術もありません。しかし、日本の経済・社会を構成する基本的なファイバーの中心がぼろぼろになって、倫理的規範が崩壊し、社会的靭帯が損壊しつつあるのではないかという危惧をもたざるを得ません。このことは、日本における学校教育制度の全般的危機となって現れています。

宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年、pp.1~3。

(2)問題状況への既存の応答の類型化

 問題状況への既存の人間の応答は、次のように類型化出来る。

 (A)世俗的応答・・・

 (a)特定の(政治的)「イデオロギー」の受容、展開。

  ①右翼化・・・例)自民党入党等。

  ③左翼化・・・例)旧左翼化=日本共産党入党、新左翼(過激派=革マル派や中核派等)参加。

  ③その他・・・例)ノン・セクト・ラジカル・・・例)全共闘等。

 (b)非「イデオロギー」の受容、展開。

 (B)非世俗的応答・・・人権の一つとしての「信仰の自由」、「宗教への自由」による特定の宗教の受容、展開。

 (a)伝統宗教の受容、展開・・・例)仏教、キリスト教、イスラム教等。

 (b)新興宗教の受容、展開・・・例)創価学会、幸福の科学等。

 (c)人権と整合しない「カルト」の受容、展開・・・例)統一教会等。

3「①人権と整合的でない「ルサンチマン」/②整合的「ラブ」の基準」から問題状況への応答を再類型化する

(1)ー「ルサンチマン」による応答ー

 「ルサンチマン」とは、ドイツの哲学者のフリードリッヒ・ニーチェが提示した哲学的概念である。それは所謂「強者」に対する「怨念」、「怨恨」、「憎悪」、「恨み」、「憎しみ」、「辛み」等の感情による心理内容の「価値転倒」である。

 道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨念 Ressentiment)そのものが創造的となり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる。

フリードリッヒ・ニーチェ[信太正三訳]『ニーチェ全集Ⅱ 善悪の彼岸 道徳の系譜』ちくま学芸文庫、1993年、p.393。

 この地上で<高貴な者>・<権勢家>・<支配者>・<権力者>に歯向かってなされたいかなることも、ユダヤ人がこれらの者に反抗してやらかしたことに比べれば、言うにもたりないものである。僧侶的民族であるあのユダヤ人は、おのれの敵対者や制圧者に仕返しするのに、結局はただこれらの者の諸価値を徹底的な価値転換によってのみ、すなわちもっとも精神的な復讐という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。

同上書、p.388。

 ニーチェは、ユダヤ教やキリスト教の道徳観を念頭にして「ルサンチマン」を概念化した。ニーチェは、「ルサンチマン」を「創造的」で既存の価値観が転倒している価値を新たに創造すると説明した。

 ニーチェに対しドイツの人間学者のアルフォンス・デーケンによれば、哲学者、哲学的人間学者のマックス・シェーラーは、ニーチェの「ルサンチマン」研究を批判的に継承した。シェーラーは「古代ギリシャの愛の観念」とルサンチマンではないキリスト教的「ラブ」を区別して、後者を「ラブ」の「正統」として保守しようとした(アルフォンス・デーケン[阿内正弘訳]『人間性の価値を求めて―マックス・シェーラーの倫理思想―』春秋社、1995年、pp.137~139)。

 しかし、具体的な個人のキリスト者の生の事実の次元では、キリスト教的「ラブ」の理念と現実は分離する場合もある。その場合、キリスト教的「ラブ」も偽善化して「ルサンチマン」化する。恐らくシェーラーやデーケンもそれを承認するだろう。

 そのサンプルとしては、バチカンの方針と対立して「現代化」しない「日本国民」のカトリックの代表事例を挙げることが出来る。

 たとえば藤原紀香や松嶋奈々子は、「美しい」という理由によって何億円もの収入を稼いでいる。普通の女性、あるいは美しくない女性が、「こんな不平等なことがあっていいのか」と抗議したところで、これは仕方がない。もし「日本の女性をみんな平等にせよ」と唱えたとしても、日本の女性をすべて美女にすることは不可能である。しかし、日本の女性をすべて不美人にすることは、じつは簡単である。「女の子が生まれたら、三日以内に鼻に焼きゴテを当てるべし」という法律をつくればよいのである。これで日本中の女性はみんな平等に不美人になる。みんな美人にはできないが、みんな不美人にすることはできる。極端な例ではあるが、平等主義とはこういうものである。(中略)「平等」とは「一番悪いほうに合わせる」以外には実現し得ない。そのことを日本人ははっきりと認識すべきである。ほんとうに貧しい人に対しては当然、社会政策として最低限の救いがあってよい。ただし、その最低限は「飢えず、凍えず、雨露に当たらず、痛みをなくする程度の医療」であって、それ以上の面倒を国家が見る必要はない。「そこで諦める人はそのまま人生を送って下さい。しばらく羽を休めてから立ち上がって仕事に入る人はそれもよろしい」とするのが望ましい姿であろう。それ以上を与えれば、与えられた人間は必ず堕落する。本来平等ではあり得ないものを平等にしようというのは土台無茶な話なのである。

渡部昇一『不平等主義のすすめ―二十世紀の呪縛を超えて―』PHP研究所、2001年pp.45~47。

 サンプルは、バチカンの方針と対立する形で精神的に「現代化」しない日本のカトリックを代表、象徴している。

 公会議によって決定された諸分野に応じて日本司教協議会内にも新たに次の司教委員会が設置された。一九六四年の典礼をはじめ教理、広報、教会一致運動の各司教委員会が一九六六年に設置され、さらに諸宗教、無宗教連絡室も設けられた。従来の信徒使徒職部も一九六六司教委員会となった。

 典礼委員会は、長江恵司教委員会長の指導のもとにミサ式文の邦訳、朗読用聖書の邦訳、教会の祈り作成を行い、対面ミサのできるようにいちはやく祭壇の改革も始めた。また、各教区には新たに司祭評議会、司牧評議会、信徒使徒職評議会も設置された。このように目に見える一大変化が日本の教会に見られるようになったが、その改善ないし改革、あるいは新たな機関の設置の理由および目的の啓蒙とその育成は不十分であったといえよう。なぜ改革されなければならないのかということが十分に司牧者自身にも納得されないまま現実に変化する実践に移ったため、その内容の真の理解には相当の時間を要し、また信徒のあいだでの混乱も大きかった。一度試験的に試みられた事柄は、ほとんど改善する余地のないほどに習慣となってしまう。この説明の不十分さは、現在にまでその余韻を残している。

ヨセフ・ハヤール他[上智大学中世思想研究所翻訳/監修]『キリスト教史』第11巻(現代に生きる教会)平凡ライブラリー、1997年、420~421。

 シェーラーは、「社会主義」的応答や「全人類愛」的応答も「ルサンチマン」の一つと評価した。

4.問題状況への人権と整合性がある世俗的「ラブ」による応答

 問題状況への応答の類型としての「ラブ」は更に二類型化出来る。①世俗的「ラブ」と②非世俗的「ラブ」である。

(1)社会心理学者のエーリッヒ・フロムの「ラブ」の場合

 フロムは「フリーダム(≒日本語の「自由」)」を重視して①「消極的フリーダム」と②「積極的フリーダム」に二分化した上で総合しようとした。「消極的フリーダム」の中心は自発的な「ラブ」である。「ラブ」とは生物の「成長」や「デベロップメント等へのコミットである。

 しかし、その「ラブ」の対象は自分と他者の両方である。従ってフロムの「ラブ」は、自己の「成長」や「デベロップメント」等を否定し犠牲にする種類の「自己犠牲」ではない。しかし、フロムの「ラブ」は「エゴイズム(自己中心主義)」や「ナルシズム」等とは区別されるものである。

 しかし、ユダヤ人のフロムは、ユダヤ人の政治哲学者のハンナ・アレント程ではないが、人権に対してかなり距離を置く。恐らくフロムには体系的な人権論/思想は無い。しかし、フロムの「ラブ」は人権との関係で再定位することは可能である。

現代世界の正義の基礎は、人権です。しかし、日本国民はまだ人権を「受肉」していない可能性もあります。恐らく人権を「受肉」するには理性と共に友愛も必要です。ここでは友愛をエーリッヒ・フロムが考える「愛(love)」と展開して、人権の「受肉」を試みます。

 フロムが「ラブ」の思想をある程度体系的な説明した著作は、『アート・オブ・ラビング』(邦題は『愛するということ』(紀伊国屋書店、2020年))である。

 日本の各界の代表者/著名者の多くも同書を推薦している。

(2)日本各界でのエーリッヒ・フロムの「ラブ」の評価ーアマゾンでの『愛するということの』の「推薦コメント」を手掛かりにしてー

各界の方々からの推薦コメント】

◆ヒコロヒー(芸人)
フロムがそれは愛ではないと言いきるものたちも、私は愛だと考えてみたい。
いびつで不均衡で整備のおぼつかない、さまざまなものたちも、れっきとした愛だとみるのはどうだろうか。

◆川村元気(映画プロデューサー・映画監督・小説家)
あまりにありふれてしまったように思える「愛」の本質を突きつけられる。
衝撃のあと、深く染み入る読書体験。

◆池谷裕二(脳研究者・東京大学薬学部教授)
愛について哲学し、愛の技術と理論を学び、そして、愛する練習を繰り返す――。そんな本はほかにはありません。ときに手厳しい言葉も綴られますが、著者が私たち読者のことを愛してくれている証拠です。

◆上野千鶴子(社会学者)
原題は The Art of Loving、訳せば「愛する技術」。だから学べる。学ばなければならないのは愛されることより、愛することだ。なぜなら愛するとは受動的ではなく能動的な行為、「人生を賭けた決断の行為」だからだ。

◆加藤シゲアキ(作家・歌手・俳優)
本書には愛することの糸口がある。
その糸をたぐれるかどうかは読者自身の行動によるが、やがて得られるものはきっと愛することだけじゃない。
その体験がいかにかけがえのないものか、読者は感じるべきである。

◆姜尚中(政治学者)
愛に飢えながら、愛を語りえないわたしたちの不幸。それは、愛が歪んだナルシシズムと利己心の別名になっているからだ。愛するということは、自己への信頼と他人の可能性への信頼にもとづく最も人間らしい技術にほかならないことを知ったとき、愛は輝きを増し、そしてわたしの希望となった。本書によってわたしは救われたのだ。

◆菊地成孔(音楽家・文筆家)
「愛ってこんなに面倒くさいものなの?」と思うでしょうけれども、こんなに面倒くさいんです。あらゆる愛の実践が、歌の歌詞だけになってしまった現代に残された、今となっては喰えないぐらいにキツイ本です。「ずっとそばにいるよ」とか「声聞けないと死にそうだよ」とかいった言葉に本気でグッと来るような人は、読まない方が良いかもしれません。

◆岸見一郎(哲学者)
高校生の時に初めて知ったフロムの著作の中で、もっとも大きな影響を受けたのが『愛するということ』である。「愛は技術なのか」。にわかには答えを出せないこの問いをフロムと共に粘り強く考え抜いてほしい。

◆小谷野敦(比較文学者・作家)
間違えてはいけない。これは「愛されるということ」ではない。この本をいくらよく読んで何かを実行しても、好きな相手から好かれるようにはならない。そういう勘違いさえしなければ、読んでもよい。

◆ジェーン・スー(コラムニスト・ラジオパーソナリティ)
悩んでいた頃に七転八倒して辿りついた、自分なりの暫定的な結論みたいなものがあったのだけど、この本を読んだらそれがフロムの言葉に重なる部分があり、同じことを考えていた人がいて嬉しかった。やっぱり愛は練習するしかないんだ。

◆武田砂鉄(ライター)
愛というのはね……なんてアナタに語り始める人がいたとしたら(しかも偉そうに!)、この本のことを思い出しましょう。そう簡単に語れるものじゃないってことを、思い出すことができます。

◆谷川俊太郎
『愛するということ』を、若いころは観念的にしか読んでいなかった。再読してフロムの言葉が大変具体的に胸に響いてくるのに驚いた。読む者の人生経験が深まるにつれて、この本は真価を発揮すると思う。

◆玉城ティナ(女優)
昨今、愛について真面目に語られることは少ない。ただ私はつねに愛を求め、信じ、まさに神のように崇めてきた。なのに本書を読む度に愕然とするのだ。愛について何も知らないということに。

◆中江有里(女優・作家・歌手)
自己承認欲求や自己顕示欲に縛られて苦しんでいる方に、「愛されることじゃなくて愛すること」、「愛することって技術だから、誰でも習得することができる」ということを、シンプルに伝える一冊。

◆幅 允孝(BACH代表・ブックディレクター)
本書は自発的な愛の技術を問うだけでなく、人間存在そのものの自発性を語るゆえ、未来の1冊だと思えるのです。シンギュラリティを迎える人類が、システムやテクノロジーの餌となり、搾取され続けるディストピアに抗うための本ともいえます。

◆平野啓一郎(小説家)
確かに、古びてしまった点もある。しかし、それを選り分ける批評的な手作業は、却って深く、読者に、現代の愛を考えさせる。「愛の技術」を説く本ではあるが、文明論でもあり、私たちの困難を理解しつつ、鼓舞してくれる。

◆弘中綾香(テレビ朝日アナウンサー)
寂しい独り者が読むものだと思わないでほしい。家族がいる人や、パートナーと上手くいっている人であっても、本当に自分はその人のことを愛せているか、この本を読んだ後に自問自答してほしい。愛するということを、生まれながらに出来る人なんていないのだから。

◆ブレイディみかこ(ライター・コラムニスト)
本書の英題は『The Art of Loving』。ARTは芸術のほか、技術、能力などを意味する。この本は「落ちる」感情ではなく、「踏み込む」意志から始まる愛のARTを語っている。その追求こそ、これからの人間と社会の進むべき道だろう。

◆文学YouTuberベル
「愛なんて、学校で習っていないからわからない!」と冗談をかます私に本気でぶつかってきた一冊だった。読んだ多くの人はこう思うだろう。「自分はまだ本当の愛を知らなかった」と。

◆ミッツ・マングローブ(歌手・タレント)
私のように主体性や自己肯定力の低い者にとって、愛とは、とめどない勘違いと妥協と失望の連続であり、それらを乗り越える気力や相手への情があるかないかを自分に問いただす作業だった。愛というこの世でもっとも面倒くさいアクトを習練し、こなし続けることで、これまで見えなかった自分を知れるかもしれない。

◆森まゆみ(作家)
初読の学生時代、私はカップルの片われで、「愛されること」ばかり考えていた。結婚、出産、育児、離婚、市民運動、更年期障害、老いの自覚を経て再読し、この本が何百倍も広く深い、生きる意味を照らす鏡であると思えてきた。

◆渡辺祐真(作家・書評家)
読んでいるあいだ、愛する人のことをずっと考えていた。その人のために自分が何をすべきか考え、様々なことを振り返り、そして決意することができた。自分と愛する人を見失わないための灯火のような本。

https://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0/dp/4314011777/ref=sr_1_1?crid=218IP2UMZZB0J&dib=eyJ2IjoiMSJ9.b__gGXURahK9EembC3f5RXaVdjgpjZ3Y5DkteWCAe7B5Bbm3lunXUk00PboPqWD7TW5nQvqcRLXBB4QI8RGG4ZHCmVM2eTmAj2KuH2hAazRdXYiCUalSOpUfuFNPCyvLFMnMhPVwMOVHqydMVfXPPmtQsG3cio9DplfSWZ0XRnmuNa0os1tMDzVrhsVAkiOiAGOgtop_NhwDcTx8HhquGhf9MA76qWZEkSkzbTRZFDw.iLYCdQFSHR4mJzxqmQTlQ6G6nvT7KAUuv1TuMONGBV8&dib_tag=se&keywords=%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8&qid=1779384383&s=books&sprefix=%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%2Cstripbooks%2C210&sr=1-1

5.問題状況への非世俗的「ラブ」による応答—キリスト教的「ラブ」の場合ー

 キリスト教には様々なバリエーションがある。最も伝統的キリスト教はバチカンを権威とするカトリックである。カトリックは「ラブ」を「保守」する「ラブの宗教」であると自己認識している。カトリックの「ラブ」とは、①「神へのラブ」と②「神の人間へのラブ」から構成される。

 しかし、1960年代にバチカンは「現代化」して世界人権宣言等の国際人権や国内人権へコミットした。それは「ラブの現代化」でもある。バチカンの教説のレベルでは「ラブ」と人権は両立可能である。『現代世界憲章』(1965年)は、「ラブ」を「保守」した上で「ラブ」を「現代化」して「ラブ」を基礎にした「平和」の基礎としての「社会正義」の推進を目指した。

 78. Peace is not merely the absence of war; nor can it be reduced solely to the maintenance of a balance of power between enemies; nor is it brought about by dictatorship. Instead, it is rightly and appropriately called an enterprise of justice. Peace results from that order structured into human society by its divine Founder, and actualized by men as they thirst after ever greater justice. The common good of humanity finds its ultimate meaning in the eternal law. But since the concrete demands of this common good are constantly changing as time goes on, peace is never attained once and for all, but must be built up ceaselessly. Moreover, since the human will is unsteady and wounded by sin, the achievement of peace requires a constant mastering of passions and the vigilance of lawful authority.

 But this is not enough. This peace on earth cannot be obtained unless personal well-being is safeguarded and men freely and trustingly share with one another the riches of their inner spirits and their talents. A firm determination to respect other men and peoples and their dignity, as well as the studied practice of brotherhood are absolutely necessary for the establishment of peace. Hence peace is likewise the fruit of love, which goes beyond what justice can provide.

https://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19651207_gaudium-et-spes_en.html

 83. In order to build up peace above all the causes of discord among men, especially injustice, which foment wars must be rooted out. Not a few of these causes come from excessive economic inequalities and from putting off the steps needed to remedy them. Other causes of discord, however, have their source in the desire to dominate and in a contempt for persons. And, if we look for deeper causes, we find them in human envy, distrust, pride, and other egotistical passions. Man cannot bear so many ruptures in the harmony of things. Consequently, the world is constantly beset by strife and violence between men, even when no war is being waged. Besides, since these same evils are present in the relations between various nations as well, in order to overcome or forestall them and to keep violence once unleashed within limits it is absolutely necessary for countries to cooperate more advantageously and more closely together and to organize together international bodies and to work tirelessly for the creation of organizations which will foster peace.

https://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19651207_gaudium-et-spes_en.html

 同憲章は人権にもコミットした。

相互依存が日増しに緊密になり、徐々に世界全体に広がっていくことによって、共通善——すなわち集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体——は、今日ますます世界的な広がりをもつものとなり、その結果、全人類にかかわる権利と義務を含むものになっている。こうして、それぞれの集団は、他の諸集団の必要と正当な要求、さらには人類全家族の共通善を考慮しなければならない。 しかし同時に、人格の優れた尊厳についての自覚も増している。実際、人格は物事の世界にまさり、その権利と義務は普遍的であり侵すべからざるものである。したがって人間が、真に人間らしい生活を送るために必要なすべてのものを獲得できるようにしなければならない。

『現代世界憲章』、『第二バチカン公会議公文書―改訂公式訳―』カトリック中央協議会、2013年、pp.625~626。

 しかし、「現代化」以降でも、教皇によってアクセントは異なる。教皇間でも、アクセントが、「ラブ」にある場合と、「ラブ」の重視の展開としての「社会正義」推進にある場合がある。具体的には、前者の代表は、教皇ベネディクト16世である。後者の代表は、教皇フランシスコである。現在(2026年時点)の教皇レオ14世は、両者の「中間(中道)」と評価されている。

 しかし、日本のカトリックの精神的「現代化」は「失敗」したと評価されている(ヨセフ・ハヤール他[上智大学中世思想研究所翻訳/監修]『キリスト教史』第11巻(現代に生きる教会)平凡ライブラリー、1997年、420~421)。その結果、「ラブ」も「現代化」も遅れた。

 2001年、日本カトリック司教団は、『いのちへのまなざし』で、「愛(ラブ)」を次のように説明している。

 「愛する」とは互いに人間として向き合い、かけがえのない存在として交わり、互いの幸せのために奉仕し合うことを意味します。「愛さない」とは、周りの人の存在を無視し、自分のこと、自分の欲望しか考えない、エゴイスティックな生き方を示しています。「愛さないものは死の中にとどまっている」という「死」は、明らかに、欲望に導かれて生きる人間の精神的な死を意味しています。

日本カトリック司教団『いのちへのまなざし―二十一世紀への司教団メッセージ―』カトリック中央協議会、2001年、p.19。

 しかし、2017年になると同司教団も『いのちへのまなざし【増補新版】』で「平和」の基礎として人権の意義を認識、評価してバチカン同様にコミットした。

 世界人権宣言は、第二次世界大戦が終結している間もない一九四八年十二月十日の、第三回国連総会で採択されました。大きな戦争の後の早い段階で、平和宣言や不戦宣言ではなく人権宣言が出されたことには、差別をなくし、すべての人の人権を確立することこそが平和につながるという基本精神がよく表れています。 

日本カトリック司教団『いのちへのまなざし【増補新版】』カトリック中央協議会、2017年、p.146。

 しかし、多くの日本のカトリックは、国連の世界人権会議後の現在も精神的に「現代化」していない可能性もある。

 私たちの小教区には「ロザリオ、焼肉、バザー」のムードがあります。若い人も教会に来ますが、この三つを発展させていこうというムードしかない。私が公会議の文書などを持っていると変人扱いされてします。主任司祭と衝突すると、他の信者に「司祭とぶつかるのはよくない」とたしなめられる。

カトリック東京教区生涯養成委員会編『講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道』サンパウロ、1998年、p.56。

 恐らく最大の原因は、①カトリック信仰の基礎が「ラブ」ではなく「ルサンチマン」であること、②彼等のカトリック信仰は「生活習慣」の一つであることにある。このような原因から日本のカトリックは価値転倒した世界の中で精神的に「現代化」しないで「現代日本」を生きている可能性がある。

6.おわりに

 社会空間上の人間の移動による「アイデンティティ」の混乱、危機、破壊への適切な応答策は、世俗的/非世俗的「ラブ」である可能性がある。恐らく「イデオロギー」や「ルサンチマン」等による価値転倒では根本的な問題状況への適切な応答にはならない可能性がある。その場合、次の世界人権宣言第29条の「公共」も成立しない。

「公共」が成立しなければ、「共生」だけでなく「共存」も困難化/不可能化する可能性もある。

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