1.はじめに
今なぜ世界人権宣言の起草史か。①国連の世界人権宣言(1948年)の第1条の「人間」観と②国連の世界人権会議(1993年)以降の人権政策に応答した日本政府の人権教育啓発政策の「人間」観を比較すると、一部を除けば、根本的に異なり得る。
日本の人権教育啓発政策は「思いやり」「優しさ」等のような道徳的心情に偏向して、普遍主義的「人間」観に基づく権利主体の形成という国際人権基準とずれている。これは世界人権宣言にコミットしている世界人権会議の「ウィーン宣言及び行動計画」と整合的ではない。
世界人権宣言(1948年)の第1条の「人間」観は、日本政府の人権教育啓発政策の「人間」観に転換を迫るものでもある。その起草史を明らかにする現代的意義は大きい。
2.先行研究のリスト
①田畑茂二郎は『世界人権宣言』弘文社、1951年。
②斎藤惠彦『世界人権宣言と現代ー新国際人道秩序の展望ー』有信堂、1984年。
③芹田健太郎「世界人権宣言採択の経緯と意義ー世界人権宣言五〇周年の評価ー」、『国際問題』第459号、1996年6月(同『地球社会の人権論』(信山社、2003年)収録)。
④寿台順誠『世界人権宣言の研究ー宣言の歴史と哲学ー』日本図書刊行会、2000年。
⑤小坂田裕子「国際人権法における人間の尊厳(一)ー世界人権宣言及び国際人権規約の起草過程を中心にー」、『中京法学』第46条1・2号、2012年。
3.田畑茂二郎は『世界人権宣言』(弘文社、1951年)ー紹介的研究ー
(1)位置付け・・・日本最初期の世界人権宣言紹介書。
(2)内容の特徴
①1948年採択からわずか3年後に出版された、日本で最も早い世界人権宣言解説書の一つ。
②主に宣言の成立背景、採択の経緯、各条文の解説を扱う「紹介的・啓蒙的」研究。
③当時の国連の動向を日本に伝える目的が強く、起草史の詳細分析よりも理念普及が中心。
(3)学術的意義
①日本で 世界人権宣言を初めて体系的に紹介した点で歴史的価値が大きい。
②しかし、一次史料へのアクセスが限られていた時代であり、起草過程の学術的分析としては限定的。
4.斎藤惠彦『世界人権宣言と現代ー新国際人道秩序の展望ー』(有信堂、1984年)ー総合的・思想史的研究ー
(1)位置付け・・・日本における世界人権宣言研究の最初期の本格的学術書。
(2)内容の特徴
①世界人権宣言の起草過程、国連憲章との関係、人権思想史、現代的意義を総合的に論じた大著。
②特に「新国際人道秩序」という視点から、世界人権宣言を国際秩序の規範として位置づける。
(3)学術的意義
①日本語で読める世界人権宣言起草史研究としては最初期の体系的研究。
②思想史・国際法・国際政治を横断する視点が特徴。
③ただし、1980年代当時は国連アーカイブ資料が十分公開されておらず、起草史の細部分析には限界がある。
5.芹田健太郎「世界人権宣言採択の経緯と意義ー世界人権宣言五〇周年の評価ー」(『国際問題』第459号、1996年6月)―制度史的分析―
(1)位置付け・・・日本の国際人権法学における制度史的世界人権宣言研究の代表。
(2)内容の特徴
①国連会議史の体系的整理連会議史の体系的整理。
②世界人権宣言の制度的位置づけの強調。
③思想史分析の欠如。
(3)学術的意義
①制度史としての意義が大きい。
6.寿台順誠『世界人権宣言の研究ー宣言の歴史と哲学ー』(日本図書刊行会、2000年)ー第1次史料に基づく起草史研究ー
(1)位置付け・・・日本における 世界人権宣言起草史研究の最も詳細な第1次史料研究。
(2)内容の特徴
①第1部:世界人権宣言の起草過程を詳細に分析・・・人権の二分法(自由権=自然権モデル/社会権=社会正義モデル)、正当化根拠の問題、起草委員会の議論の構造。
②少数者条項削除の問題(第1次史料に基づく詳細研究)。
(3)学術的意義
①日本語文献としては最も起草史の細部に踏み込んだ研究。
②国連文書を丹念に読み込み、哲学的問題(正当化根拠・普遍性)を扱う点が特徴。
③2000年時点での日本の世界人権宣言研究の到達点。
7.小坂田裕子「国際人権法における人間の尊厳(一)ー世界人権宣言及び国際人権規約の起草過程を中心にー」(『中京法学』第46条1・2号、2012年)ー国際人権法における「人間の尊厳」研究ー
(1)位置付け・・・世界人権宣言起草史を「人間の尊厳」概念から再構成する国際人権法研究。
(2)内容の特徴
①世界人権宣言と国際人権規約(ICCPR・ICESCR)の起草過程を比較しながら、「人間の尊厳」概念が国際人権法の基礎原理としてどのように形成されたか を分析。
②カサン案・起草委員会の議論を参照しつつ、dignity の概念史、国際人権法における法的機能 を検討。
(3)学術的意義
①日本では希少な「人間の尊厳」概念に焦点を当てた 世界人権宣言起草史研究。
②世界人権宣言研究を国際人権法の体系的議論へ接続する点で重要。
③しかし、小坂田は dignity の概念史を整理するが、カサン自身の思想形成過程(ユダヤ系フランス人としての経験、法学者としての背景)を十分に検討していないため、カトリックのジャック・マリタンのカサン案への思想的影響を実証的に位置づけるには至っていない。
そのためカサンの「人間の尊厳」理解がどの思想潮流に属するのか(ユダヤ思想/フランス共和主義/自然法/カトリック思想)が不明確なままである。
7.おわりに
寿台は起草史の哲学的問題を精緻に分析したが、「人間の尊厳」概念そのものの思想史的位置づけは十分ではない。
一方、小坂田は「人間の尊厳」を国際人権法の基礎として検討したが、カサン自身の人権思想そのもの分析が不足している。
従って筆者の今後の課題は、第1次資料に基づきカサンの人権思想の全体像を検討して、日本の世界人権宣言起草史の空白を埋める。その際、マリタンの思想的影響も検討する。
そのアクチュアルな研究意義は、国際人権基準の「人間」観を明らかにして、日本の人権教育啓発政策の「人間」観に転換を迫る点にある。