人間の「移動の自由」の両義性ー地理移動と「進学」等の「社会的流動性」に着目してー

1.はじめに

 人権の保障には両義性があるのか? 「解放」でもあり得る人間の「移動の自由」は、「差別」の移動とも関係するのか?

 「移動の自由」の拡大は、「社会的流動性」の拡大と認識され、肯定的に評価される場合もある。アカデミズム、特に社会科学界では「社会的流動性」とは、主に「階層」間移動を意味する場合が多い。

 しかし、地理移動や「進学」等の「社会的流動性」も人間に大きな影響を与える点を軽視していないか?

 本稿では、「社会的流動性」を「階層」間移動に限定せず、地理移動や「進学」等を含む、人間の社会空間上の移動として広く捉える。

 本稿はそれらの「移動の自由」も重視した上で、「移動の自由」の両義性の問題を仮説的に提示する。

2.地理移動や「進学」等の人間の「移動の自由」の両義性

 人間の「移動の自由」は「社会的流動性」でもある。「社会的流動性」には、地理移動や「進学」等の移動がある。一般的には、「階層」間移動を重視する。しかし、人間の「移動の自由」による「差別」の移動を問題にする場合、地理移動や「進学」等の移動も重要になる。本稿は後者も同じ程度重視する。

 地理移動と「進学」等による「人間の移動」には、「差別」の移動である場合と「差別」の移動ではない場合があり得る。そう問題を再設定するとそけらの移動も軽視出来なくなる。また、多くの場合、「階層」間の「社会的流動性」の高さを肯定的に評価する傾向がある。しかし、「階層」間の移動は「差別」の移動等でもある場合、肯定的には評価出来なくなる。同様なことは、地理移動と「進学」等にも妥当する可能性もある。事実の場合、それらも問題にする必要がある。

 地理移動と「進学」等が持つ人間への影響の大きさは、政治学者の岡野八代も次のように証言している。

 わたしは、三重県の松阪市で生まれ育ちました。松阪牛で有名なわたしの故郷は、大学進学を機に離れてみてようやく、歴史的に作られた複雑な差別構造をもった市なのだと気づきました。それ以来、差別やアイデンティティの問題に関心を持ち、歴史的・理論的にこれらの問題を考えるために、哲学ではなく、政治思想を専門に選びました。内向的な思索ではなく、世界とのかかわりの中で、差別やアイデンティティの問題を考えたかったからです。

https://global-studies.doshisha.ac.jp/gs/faculty_members/list/okano/index.html(2024年10月9日アクセス)

 そうすると「移動の自由」の拡大を無批判に肯定する立場は、ミスリーディングである可能性もある。

 その典型事例の一つとして教育社会学者の苅谷剛彦の研究が挙げられる。苅谷は戦後の日本では一貫して「階層」と教育の関連が維持されていることを指摘した。

 事実のレベルで見るかぎり、日本においても『階層と教育』の関連自体は、(イギリスとアメリカ)両国とあまり変わらない。(中略)ミドルクラスと労働者階級とを歴然と分かち、『二つの国民』『オレとヤツラ』という表現でしばしば問題にされるイギリスの階級制度。競争社会といわれながら、なお『人種差別』に代表される階層構造を維持し続けているアメリカ。これら二つの社会とほぼ同じ程度に(あるいはそれ以上に)、日本においても、どのような家庭に生まれたのかが、子どもの教育達成に大きな影響を及ぼしているということはもはや明らかであろう。

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴神話と平等神話の戦後史―』中公新書、1995年、p.103。

 社会科学界では、「社会的流動性」が「階層」間移動を中心に論じられる場合が多い(本稿とは直接関係がないために言及に止めるが、歴史的文脈的には「階層」か「階級」かという問題もある)。

 他方、苅谷は自己言及の際にはそれとは正反対の証言をしている。

 東京の下町に生まれ育った私の学校時代は、本書が対象とした時期とだいたい重なる。私の通った小中学校の学区には、日雇い労働者の居住地が含まれていた。その日の仕事であぶれた大人たちが路上でたたずんでいる。そのかたわらを、私は学校へと通った。(中略)同級生の中にはいろいろな事情で高校に進学できない友人たちがいた。(中略)大学まで進んだ友人は多くはなかった。(中略)私自身にしても、大学の夜学を中退し小さな会社をはじめた父親の事業が高度経済成長の波にのって成功しなかったら、大学まで行けたかどうか。(中略)経済成長と教育拡大の時代を生き、その恩恵をこうむったのは私自身だったのかもしれない。

同上書、pp.220~221。

 そうすると苅谷の教育社会学的主張だけでは、自己言及に現れる複数の移動経験を十分に捉えきれないのではないか? 「社会的流動性」を「階層」という一つの軸で説明することによって、当事者自身が経験した地理的・教育的・文化的な複数の移動経験が捨象されるのではないか? その点を重視すると、苅谷自身も「階層」間移動だけでなく地理移動と「進学」等によって岡野と同様な状況に陥ったのではないか?

 「移動の自由」の拡大によるアイデンティティの苦しみについては、政治哲学者のチャールズ・テイラーが既に次のように指摘している。

 他者の承認が得られる社会では、ひとびとはアイデンティティに満足していますが、まだ他者からの承認が得られていないような小さな飛地的社会では、ひとびとはとても傷つきやすくなっています。だからアウトサイダーにとって承認の問題はさし迫った問題です。特に社会的上昇を遂げたアウトサイダーが、自分たちをもとの歪んだ像にひきもどすような企てを承認しないということは実際にはあり得ることです。かれらにとってそのようなことは、極めて不安なことであり、社会的上昇によって獲得した力を失うことになるからです。

チャールズ・テイラー[岩崎稔+辻内鏡人訳]「多文化主義・承認・ヘーゲル」、『思想』第865号、岩波書店、1996年7月、p.9。

 テイラーの指摘は、次のように展開出来る。「能力」を基準にした「能力主義」的な「移動の自由」の行使は、「能力」という基準では同じ「能力」を持つ人間は同一の水準になるが、地理や学(校)歴等の他の水準での差異は「不平等」になり、「移動の自由」を行使した人間の評価を下げる効果があるため自己像やアイデンティティを脅かし、極めて不安になり、差異の承認を強く要求する。

 テイラーの指摘を踏まえると、こうした現象が「階層」間移動の「不平等」という一つの問題へ還元される可能性もある。

3.「移動の自由」の両義性ー「差別」の移動の可能性ー

 本稿では、「階層」間移動ではなく、地理移動や「進学」等の人間の「移動の自由」に着目した。

 それらの「移動の自由」は当事者の自己像やアイデンティティを脅かす場合もあり、複数の差異から生じる苦悩が、「階層」間移動の「不平等」という問題へ一元化して理解される可能性がある。

 恐らくその背景には、「移動の自由」の拡大による社会的地位の苦悩がある。恐らく当事者は、社会的地位をめぐる苦しみを、複数の差異から生じる問題を「階層」間移動の「不平等」へ一元的に還元することによって解決しようとする場合がある。

 例えば、岡野の証言は、「移動の自由」によって自分自身の位置付けや社会認識が変化したことを示している。しかし、岡野が複数の差異を「階層」間移動の「不平等」へ解消して解決しようとしたかまでは確認出来ない。現在、岡野は「差異の政治」を主張しているアメリカの左派アイリス・マリオン・ヤングの思想等を主な手掛かりにして「ケアの倫理」を研究している(岡野八代『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想ー』岩波新書、2024年)。岡野は「構造的暴力」を問題にしている。しかし、岡野自身の人間問題でもある三重県松阪市の「差別」問題とされるものは研究していない可能性がある。苅谷も自己言及した問題は研究しなかった可能性がある。

 岡野の政治的立場は確認していない。しかし、日本共産党中央委員会政治理論誌『前衛』のインタビュー記事等が複数あることをネット上での文献検索では確認出来る。

 自分自身の人生問題や人間問題か学問的問題か? 『前衛』は「自称」だが「政治理論誌」であるので「政治理論」上の問題である可能性もある。 しかし、岡野が思想的影響を受けているヤングは左派であるために左翼と親和的である可能性もあるが、同誌が日本政治思想学会等のアカデミズムも「政治理論誌」と認識、評価しているかは確認していない。

 もし「移動の自由」の拡大によって生じる複数の差異や苦悩が、「階層」間移動の「不平等」という一つの問題へ一元的に還元される場合、「階層」間移動の「不平等」自体が、複数の異なる問題を抱え込んだ極めて論争的な問題領域になる可能性もある。

 「戦後教育学のリーダー」堀尾輝久は、「能力」を基準にした「社会的流動性」の一側面を「エリートの冷酷化」として捉えて批判して来た。

 学校が競争と選別の機能を効率的に果たすことが求められるほどに、落ちこぼされた無気力な青年と、ライバルをけ落として動じない冷酷なエリートが生み出されている(下線は引用者による)。

堀尾輝久「教育における平等と個性化―価値意識の変革に向けて―」、『教育』第28巻第12号、国土社、1978年11月、p.88。

 堀尾説を展開すると「冷酷化」は「残忍」や「残酷」等を特徴とする非「人間」化でもある可能性がある。その場合、「移動の自由」による非「人間」化と「差別」の移動は関係する可能性がある。

 地理移動や「進学」等の人間の「移動の自由」は「差別」の移動でもあるのか? 理論的には、そうである場合とそうでない場合に分類出来る。

 もし人権を相互尊重せず他者を「差別」して人権を侵害する人間が、社会空間上を移動した結果、その理由によって他者から正当に警戒される場合もある。その場合、当事者は自己像やアイデンティティを脅かされる可能性はある。

 それは人権と人権の衝突の問題でもある。

4.おわりに

 テイラーの指摘は、この事例に適用できる場合とできない場合がある。もし適用出来る場合、「移動の自由」は「差別」の移動でもあるのか?

 既存の「社会的流動性」の認識と評価を異なる視点から捉えれば、複雑で深刻な人権問題として再設定出来ないか?

 その場合、その問題は大学界やアカデミズム等の「場所」で先鋭化する可能性もある。しかし、それ以外の「場所」では先鋭化しない可能性もある。

 結局、1970年代以降、特に1980年代以降、北米で議論が活性化して論争化し、現在では世界的にも議論されている財の(再)分配と差異の承認をめぐる問題か(所謂「リベラルーコミュニタリアン論争」」)?

 人権の両義性の問題か?

 2001年にユネスコは人権と「文化的多様性」の間に境界線を設定した。しかし、世界にはユネスコとは異なる境界線もあり得る。しかし、マクロ的には大きな差異は無いかも知れないが、「多様性」概念の差異の複数性や対立は解消しないかも知れない。従ってユネスコ基準の妥当性は確認する必要がある。

 しかし、本稿では仮説的な問題提示に止める。

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