国際人権に対する集団間「教育格差」の除去の位置ー人間の「画一化」のリスクー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認し、その後人権政策を展開した。

1.はじめに  国際人権に対する国連の人権政策を人権教育政策を中心に説明する。 2.世界人権宣言(1948年)ー国際人権の「原...

 他方、日本国内では集団間の「教育格差」論が存在する。

 では「教育格差」を除去した場合、どうなるのか? 人間の「画一化」による「ディストピア」の実現か?

2.国際人権

(1)世界人権宣言第1条

 すべての人間(All human beings)は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

(2)世界人権宣言第26条

 教育(Education)とは、人間的パーソナリティ(human personality)の十全な発達(full development)並びに、人権及び基本的自由のリスペクトの強化を指向するものとする。教育は、すべての国民の間及び人種的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好(friendship)を促進し、並びに、平和の維持のための国際連合の活動を推進するものとする。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

(3)小括

 国際人権の人間観とは、普遍主義的「人間(理性、良心、友愛の精神)」観である。

 国際人権の「教育」の構成要素は以下の通りである。

 ①「人間的パーソナリティの十全な発達」

 ②「人権及び基本的自由のリスペクトの強化」。

 国際人権の「教育」と日本国内での<教育>、特に学校<教育>を比較して異同を証明する必要がある。

3.国内の法規範ー教育機会の分配基準としての「能力」の位置ー

(1)日本国憲法第26条

 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#3sho

(2)改正教育基本法第4条

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/mext_00003.html

(3)小括

 憲法の「教育を受ける権利」の保障基準は「能力」の平等であると解釈出来る。改正教育基本法の教育機会の分配基準は「能力」であることが確認出来る。

 「能力」主義は「能力」以外からの「差別」からの「解放」という肯定的な側面がある。しかし、「能力」形成の諸条件は不平等である。その不平等を平等にしないと、「能力主義」の形式的なレベルに止まり実質的なレベルでは実現しない。

4.自然科学の研究

(1)ヒトゲノム研究

 ヒトゲノム研究の場合では、生物学的な意味での「ヒト」は、先天的な「ヒトゲノム」と後天的な出生後の世界との相互作用の中で形成される。「ヒトゲノム」とは、「ヒトの細胞に共通して存在する DNA の全配列」を意味する。

 同じ「日本国民」(国籍)内にも「クラスター」間で「ヒトゲノム」の差異がある(例えば、斎藤成也「ヒトゲノム研究の新しい地平」、『Anthropological Science(Japanese Series)』, 第117巻 第1号、2009年等)。「クラスター」とは、「遺伝的に似た個体どうしがまとまって出来る集団のかたまり」を意味する。例えば、「日本本土人」、「沖縄人」、「アイヌ人」等である。

(2)遺伝子研究

 ヒトゲノム研究によれば、「ヒト」の形成に対する出生後の世界との相互作用の一つの構成要素として「教育」もある。同じ両親から生まれた双生児でも、一卵性双生児の場合、ヒトゲノムは殆ど同一だが、二卵性双生児の場合、ヒトゲノムは異なる。現段階では「教育」による「ヒト」の潜在能力の発現効果も、否定されず支持されている。 

5.自然科学への教育学者のスタンス

(1)教育学者の堀尾輝久の場合

 「環境が人間を創る」というのは、人間形成理論として、確かに一面的である。さらに、これを根拠とする人間平等論が、もし自然的差異を否定するならそれは誤っている。

堀尾輝久『現代教育の思想と構造―国民の教育権と教育の自由の確立のために―』岩波書店、1971年、p.263。

(2)教育社会学者の本田由紀の場合

 双生児データやIQテスト結果などを用いて,遺伝的要因や「知能」を生得的「能力」とみなすことにも,教育社会学は消極的である(たとえば,平沢・古田・藤原(2013)の詳細な研究レビューにおいても,これらの変数はまったく言及されていない)。

本田由紀「能力とはー社会学の観点からー」、『日本労働研究雑誌』第681号、2017年4月、p.47。https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2017/04/pdf/046-048.pdf

 「平沢・古田・藤原(2013)」とは、平沢和司・古田和久・藤原翔「社会階層と教育研究の動向と課題」『教育社会学研究』第93集、2013年である。

(3)小括

 「能力」主義の「能力」形成の条件は二つある。

 ①ヒトゲノムや遺伝子等の先天的な条件。

 ②出生後の後天的条件。

5.「教育格差」論の起源の一つー教育社会学者の苅谷剛彦の「日本型文化的再生産」研究ー

(1)苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(1995年)の場合

 事実のレベルで見るかぎり、日本においても『階層と教育』の関連自体は、(イギリスとアメリカ)両国とあまり変わらない。(中略)ミドルクラスと労働者階級とを歴然と分かち、『二つの国民』『オレとヤツラ』という表現でしばしば問題にされるイギリスの階級制度。競争社会といわれながら、なお『人種差別』に代表される階層構造を維持し続けているアメリカ。これら二つの社会とほぼ同じ程度に(あるいはそれ以上に)、日本においても、どのような家庭に生まれたのかが、子どもの教育達成に大きな影響を及ぼしているということはもはや明らかであろう。

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴神話と平等神話の戦後史―』中公新書、1995年、p.103。

(2)2000年代における「教育不平等」から「教育格差」への展開

 2001年、苅谷は、『階層化日本と教育危機ー不平等再生産から意欲格差社会へー』(有信堂)を発表した。

 苅谷は同書の「はじめに」で「所得格差」というタームを使用した。この点は、経済学者の橘木と類似している。しかし、苅谷は「意欲格差」というタームも使用した。苅谷がいう「意欲格差」とは「階層」間の「意欲格差」である。苅谷の特徴は、「階層」間の「意欲」の「不平等」を、「意欲格差」と表現した点にある。この点に「教育不平等」の「教育格差」への展開を確認することが出来る。

 しかし、苅谷は「格差」と「不平等」の異同を検討していない。

6.おわりに

 教育には国際人権の「教育」と日本国内の<教育>がある。国内での<教育>の分配基準は、「能力」である。「能力」形成は、①先天的条件と②後天的条件に規定される。日本の教育社会学者は、①先天的条件を無視する傾向がある。

 また、国際人権の「教育」と日本国内の<教育>も区別しない傾向がある。更に「不平等」と「格差」も定義せず異同を明らかにせず、「格差」と称されるものを除去しようとする傾向がある。

 「格差」と「多様性」が区別されず「格差」の除去により「多様性」も除去される場合、人間は「画一化」するリスクがある。

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