社会秩序の構成原理としての人権の基礎ー日本の選択肢の幅ー

1.はじめに

 日本の社会秩序の構成原理としての人権の基礎の選択肢の幅とは? 具体的には、①「人間の尊厳」、②「個人の尊重」、③「人格の尊厳」か?

 米ソ冷戦期では「人権」や「法の支配」等の価値観は、「西側の価値観」だった。しかし、冷戦後の1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認し、「折り重なる合意(オーバーラッピング・コンセンサス)」(ジョン・ロールズの「政治的リベラリズム」)を形成して「ウィーン宣言及び行動計画」を採択した。それにより「西側の価値観」としての人権は、脱/超「西側の価値観」化して世界秩序の構成原理になった。

 冷戦後のイギリスで労働党党首のトニー・ブレアは、「第三の道」を志向したが、当初は意味内容がかなり不明確だった。1998年、ブレアのブレーンだった社会学者のアンソニー・ギデンズは、『第三の道ー社会民主主義のリニューアルー』でそれをある程度まとまつた同党の政治思想として提示した。

 ギデンズによれば、「第一の道」は「旧社会民主主義」で「第二の道」は保守党のマーガレット・サッチャー元首相の「ネオ・リベラリズム=サッチャリズム」である。「第三の道」とは、「旧社会民主主義」でも「ネオ・リベラリズム=サッチャリズム」とも異なる「リニューアルされた社会民主主義」を意味した。同書は国連のSDGsでも採用されている「インクルージョン(包摂)」の主な思想的起源でもある。

 日本の社会秩序の構成原理としての人権の基礎とは? 恐らくその重要な条件の一つは、人間の相互尊重の成立であり得る。一つの理由は、人間の相互尊重が成立しない場合、「インクルージョン」も困難化/不可能化する可能性もある点にある。

 日本の文脈を考慮すると主な選択肢の幅とは、①「人間の尊厳」、②「個人の尊重」、③「人格の尊厳」か? ①「人間の尊厳」とは世界人権宣言である(国際人権の基礎)。②「個人の尊重」とは日本国憲法である(国内人権の基礎)。③「人格の尊厳」とは自民党の「結党宣言」である(特定の政党の政治理念)。同宣言は戦後の「保守」政党の原点でもある。

 憲法の「基本的人権」(国内人権)の基礎である「個人の尊重」は、「個人の尊厳」や「個人主義」」でもある。しかし、前後、「普遍的価値観」とも重複するそれらの価値観は、ずっと議論されてきた。主な批判は、 それらの価値観の「エゴイズム(自己中心主義)」化による人権「行使」ではなく人権「濫用」化への批判だった。

 批判が事実である場合、「人間の相互尊重」や「人権の相互尊重」や「インクルージョン」も困難化、不可能化する可能性もある。しかし、三者の関係は明確にする必要がある。世界人権宣言の場合、「人間の相互尊重」は第1条の「人間の尊厳」の平等、「人権の相互尊重」は第29条によって実現可能になる。しかし、その場合、「人間の尊厳」の平等と「人権の相互尊重」の関係も重要である。

 世界人権宣言の原案であるルネ・カサン案では、はじめ「人間の尊厳」と「公共」や人権の相互尊重はワンセットだった。それは採択された同宣言では、第1条と第29条へ分節化された。しかし、同宣言では、第1条と第29条の関係に関する規定はない。従って解釈の余地もある。しかし、それは原案ではワンセットであった。それは一つの「客観的真理」(ユネスコ憲章)である。恐らく「エゴイズム」化による人権の濫用化を予防したり回避したりする場合、それらが原案では一体であった点は重要である。

 日本の人権の基礎とは? 現段階での日本の主な選択肢の幅とは? ①「人間の尊厳」、②「個人の尊重」、③「人格の尊厳」か? 筆者は日本の専門分化した特定専門領域の「学問」を担当する「研究者」ではなく、「人権アーキテクト」の立場から人権の基礎を考察しようとしている。

 本稿では、「学術論文」等のような考察の一つの「到達点」としての「結論」ではなく、考察の「プロセス」そのものを公表してオープンにする。その目的は、細分化された学問等の「知」ではなく、「市民的公共知」の形成の促進にある。

2.社会秩序の構成原理としての人権の基礎ー日本の選択肢の幅ー

 本稿では人権の基礎の選択肢の幅を考察する際、次の三点の説明を重視する。

 ①「アクチュアリティ」(今なぜ?)。

 ②「プライオリティ」(何をどういう順番で優先するか?)。

 ③「アカウンタビリティ」(説明出来るか?)。

 考慮する必要がある主なスパンの幅は、①短期、②中期、③長期である。しかし、本稿ではスパンの考察はまだ十分にしていない。

 日本の最高法規は憲法である。まず憲法の「基本的人権」への批判を確認する。その一つの代表的なものは、その「エゴイズム(自己中心主義)」化への批判である。

 その文脈的起源は、明治時代の初期まで遡及出来る。当時はまだ「フリーダム」に対応した法制度が未整備だった。しかも、「フリーダム」は、「我が儘」を意味した「自由」と「誤訳」されて、当時の日本国民の「フリーダム」理解が困難化、不可能化したという文脈もある。恐らくその文脈は重要である。

 現在でも、「普遍的価値観」としての人権の構成要素としての「フリーダム」の理解の困難性は、少なくともまだ人権教育の分野にはある。日本での「フリーダム」の「自由」への「誤訳」は既に定着している。その結果、「自由=「我が儘」等」のフィルターを通して、「フリーダム」を合理的に「誤認」する可能性はある。まずは正確に基本情報をシェアすることが重要である。

 しかし、憲法の「基本的人権」が「エゴイズム」化して人権の「濫用」化する原因も、実は憲法に内在的に存在している。

 憲法の「基本的人権」の基礎とは「個人の尊重」である。それは「個人の尊厳」や「個人主義」でもある。しかし、同憲法では「基本的人権」と「公共の福祉」はワンセットである。そうすると「基本的人権」の基礎としての「個人の尊重」と「公共の福祉」もワンセットであると解釈することも出来る。

 しかし、次の難点もある。

 ①「公共」や「公共の福祉」が概念規定されていないこと。

 ②「基本的人権」と「公共の福祉」の関係が明らかではないこと。

 憲法の起草、審議過程では、①と②は議論されたのかも知れない。そして、「基本的人権」と「公共の福祉」の関係が「個人の尊重」が「エゴイズム(自己中心化)」化して人権が濫用されないようにデザインされたのかも知れない。しかし、現段階では実証出来ない。

 いずれにせよ実際に公布、施行された憲法では、①と②の説明がない。従って解釈の余地を大きく残している。しかし、最高法規である憲法で重要なタームが明確に概念規定されないことは一般的でもある。、その場合、憲法よりも下位の法規範である法律で説明する必要がある。しかし、「公共の福祉」に関する法律は制定されていない可能性もある。その場合、「公共の福祉」は、選挙で選ばれる立法権力の国会議員ではなく、裁判所等の司法権力が各案件毎にその都度司法判断するようになる場合もある。

 しかし、憲法とは対照的に、ルネ・カサンが重要な起草者である国連の世界人権宣言では、第1条と第29条で人権と「公共」等がかなり明確に規定されている。

Article 1

 All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

Article 29

  1. Everyone has duties to the community in which alone the free and full development of his personality is possible.
  2. In the exercise of his rights and freedoms, everyone shall be subject only to such limitations as are determined by law solely for the purpose of securing due recognition and respect for the rights and freedoms of others and of meeting the just requirements of morality, public order and the general welfare in a democratic society.
  3. These rights and freedoms may in no case be exercised contrary to the purposes and principles of the United Nations.

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

 第1条では、「人間の尊厳」と普遍主義的「人間」観(理性、良心、友愛の精神)はワンセットである。その「人間」観は、理性、良心、友愛の精神がない特殊主義的「人間」観ではない。理性の重視は、「客観的真理」を重視するユネスコ憲章とも整合的である。そうすると「人権」の内容が不明確だって時期に署名、採択されたユネスコ憲章も、その後に採択された同宣言を基礎に解釈する必要がある。

 採択された宣言では第1条と第29条の関係は明確に説明されていない。しかし、国際人権法学者の小坂田裕子によれば、国際人権や現代人権の「デフォルトのデフォルト」であるルネ・カサンの原案では、第1条と第29条はワンセットだった。

 小坂田によれば、スペインの法哲学者のホセ・ヨンパルトは、日本で「基本的人権」の基礎を憲法の「個人主義」から「人間の尊厳」へ「再解釈」(一つの変換?)することを提案した。しかし、ヨンパルトが「人間の尊厳」を規定した第1条と「公共」に関係する第29条の関係をどのように認識、評価していたのかは不明である。少なくとも小坂田はそれを明らかにしていない。

 他方、冷戦期の1955年の自由民主党の「結党宣言」での社会秩序の基礎は「人格の尊厳」である。結党関係者は、旧体制から新体制への移行期を横断的に生きた人々である。つまり彼等は「体制移行期の人間」であった。そうすると人権が憲法で保障されていなかった旧体制の「人格」主義に影響を受けていた可能性もある。

 例えば、「大正教養主義」も一つの「人格」主義だった。それには三つの系譜があるが、「人格」主義にも内的差異がある可能性もある。クエーカーの新渡戸稲造の弟子の南原繁の弟子に当たる「戦後民主主義のオピニオンリーダー」の政治学者の丸山眞男も、思想的影響関係は明確ではないが、人間関係的には「新渡戸⇒南原」という新渡戸の「大正教養主義」の系譜に属す。丸山の民主主義思想における旧体制と新体制との「連続性」と「断絶性」も問題になるかも知れない。

 1930年代に新渡戸の弟子である河合栄次郎がリードした「昭和教養主義」も、「大正教養主義」の「人格」主義を展開したものである。状況証拠的には自民党の結党関係者も、その世代に属す。例えば、厚生大臣等を歴任した新渡戸の「愛弟子」とされた鶴見祐輔等である。

 鶴見祐輔の子弟であり、丸山等と共に『思想の科学』を創刊し、代表的な「進歩的文化人」と認識、評価された評論家の鶴見俊輔も、新渡戸の系譜に属す。しかし、鶴見の場合、新渡戸を積極的に批判した。それは父親である雄介批判であったと鶴見本人は筆者に「告白」した。しかし、鶴見の新渡戸批判は「家族内紛争」では完全には説明出来ない、一つの「客観的真理」(ユネスコ憲章)を構成している。

 新渡戸の系譜の問題性を切断しても、文脈的には憲法の「基本的人権」の基礎としての「個人の尊重」は、「人格の尊厳」として「人格」主義的に解釈出来る可能性もある。その場合、「人格の尊厳」は人権を前提にしているのか否かが問題になる。

 また、現在日本で連立政権を担当している同党が、「結党宣言」の「人格の尊厳」を継承しているかも不明である。恐らく二つの可能性がある。

 ①「結党宣言」を「保守」している・・・「保守」の「正統」。

 ②「結党宣言」を「保守」していない・・・(特に自民党内の文脈での)「保守」の「異端」。

 ②の場合、同党は脱/非/反「保守」化している。それは「保守」の一つの「正統」の「異端」化でもある。「保守」革命による「新保守主義」の形成と展開の文脈を考慮するとその可能性もあり得る。

 もし実際に②であっても、現在も同党は結党の文脈や目的等を(再)重視する可能性もある。そうすると①の立場への回帰も選択肢の幅の一つであり得る。

 世界人権宣言の「人間の尊厳」や「ヒューマン・パーソナリティ」は、普遍主義的「人間」観を基礎にしている。しかし、「結党宣言」では、世界人権宣言の「人間の尊厳」や「ヒューマン・パーソナリティ」と「人格の尊厳」の関係は説明されていない。その結果、普遍主義的「人間」観を基礎にするのか否かという決定的に重要な問題も、解決されていない。

 世界人権宣言第26条「教育への権利」では、「ヒューマン・パーソナリティ」は十全な「デベロップメント」の対象である。一般的には「デベロップメント」とは、「発展」や「開発」や「発達」等と日本語訳される。しかし、原語の英語では同じ「デベロップメント」である。

 SDGsの”D”も「デベロップメント」である。「デベロップメント」は複数の日本語に訳し分けずに、同一の「デベロップメント」としてワンセットで理解する必要もあるかも知れない。

3.おわりに

 日本の人権の基礎とは? その選択肢の幅とは? ①「人間の尊厳」、②「個人の尊重」、③「人格の尊厳の幅か? 本稿では三つに限定して考察した。だがその他の選択肢もあるかも知れない。

 本稿では限定された形でその三つの可能性を考察した。

 まず「個人の尊重」には「限界」がある可能性もある。それは重要なターム、ターム同士の関係が明確でなく、それらの立法化をオリエンテーションするタイプの「立憲主義」でもない可能性があるいう「限界」である。

 「人格の尊厳」は人権を前提にしているのか否かという問題性もあった。それはその「人格」は、国際人権のような普遍主義的「人間」観を基礎にした「ヒューマン・パーソナリティ」なのか否かという問題性でもある。しかし、まだ十分に考察してない。考察の余地はまだある。

 「人間の尊厳」は、人権を基礎にして「人間の相互尊重」を可能にするものだった。その場合の「人間の相互尊重」とは、「人権の相互尊重」でもあった。また、人権を基礎にしているので、「フリーダム」は日本語の「自由=”我が儘”」ではなく「フリーダム」そのものである。恐らく文脈が異なるので、「誤訳」による「フリーダム」の「誤認」を基礎にした「エゴイズム」化批判という明治時代以降の日本的特殊事情もないだろう。「教育」も人権の基本情報をシェア出来るようにデザインされていた。

 「人間の尊厳」と「公共」等の関係は、実際に採択された同宣言よりも、「デフォルトのデフォルト」であるルネ・カサン案の方がより明確であった。

 原案まで遡及しないと重要だが不明確な事柄もあった。例えば、第1条と第29条の関係は、人権の「エゴイズム」化を防止、回避するものとしてデザインされていた。

 そうするとルネ・カサン案と採択された宣言の両方を参照して、「人権=国内人権+国際人権」を互換的、整合的に解釈する必要もあるかも知れない。そう解釈することで「人間の尊厳」は、「個人の尊重」や「人格の尊厳」よりも可能性がより一層大きくなるかも知れない。

 本稿は一つの考察の「プロセス」である。しかも、考察の途上でもある。しかし、考察の「プロセス」そのものの公開は、「考える(シンキング)とは何か?」の一つのモデルを公開することかも知れない。

 国連等の「人間開発」や「人間の安全保障」を思想的、理論的にリードした、リベラル派厚生経済学者のアマルティア・センは、一見「フリーダム」に反している「普通(一般)教育」としての「義務教育」を重視した。

 センは「普通(一般)教育」は、未来の「子ども」の「フリーダム」を拡大させる可能性があるものと捉えて、が国家権力「義務教育」としてそれを強制することを正当化した。恐らくセンの立場は、国際人権の「教育への権利」とも互換的、整合的である。恐らく国際人権でも説明されていないが、この点に人権基準の「義務教育」の原理的な正当化理由・根拠もある。

 そうするとそれに対応する日本の「義務教育」の段階で、「対話的、批判的シンキング」を育成する「アクティブ・ラーニング」を受けている「子ども」(18才未満の人間)には、「考える(シンキング)とは何か?」に関する具体的でモデルになるかも知れない。しかし、あくまで一つのサンプルかも知れない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする