日本の人権教育政策に対する「日本国民」の不利益の責任所在ー教育委員会/文部科学省/内閣ー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議を採択し、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性、相互不可分性、相互依存性、相互関連性を(再)確認した。その後、国連は人権政策を展開した。日本政府もリアルタイムで応答した。しかし、国会は「日本的調整」を行い法律を制定した。他方、文科省は人権教育政策をヨーロッパ・モデルも参照して展開し、必ずしも「日本的調整」を行っていない。

 地方自治体では文科省の人権教育政策に正確に応答せず、普遍的価値としての人権を「思いやり」「優しさ」等の特殊的価値へ変換する場合もある。

1.はじめに  人権政策の展開による日本国内の自生的秩序への人権基準の適用は、人権基準を基礎とした場、“vulnerable gro...

 責任の所在とは?

2.国民が不利益を被っている場合、誰に対して責任を追及すべきか?

 国連の世界人権宣言第1条では、普遍主義的「人間」観が提示されている。

 すべての人間(All human beings)は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性(reason)と良心(conscience)とを授けられており、互いに友愛の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

 同宣言第26条では、「教育」を一つには「人権教育」として定義している。

 2. 教育(Education)とは、人間的パーソナリティ(human personality)の十全な発達(full development)並びに、人権及び基本的自由のリスペクトの強化を指向するものとする。教育は、すべての国民の間及び人種的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好(friendship)を促進し、並びに、平和の維持のための国際連合の活動を推進するものとする。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

 同宣言第29条では、人権の相互尊重を人権行使の条件として規定している。

 全ての者は、自己の権利及びフリーダムズの行使に当たって、他の者の権利及び自由の正当な承認(recognition)及びリスペクトを確保すること並びに、民主社会の道徳(morality)、公共的秩序(public order)及び一般的福祉(general welfare)の正当な要求を満たすことを専ら目的として法により定められた制限にのみ服する。

https://www.mofa.go.jp/policy/human/univers_dec.html

 世界人権宣言は国際慣習法である。また、同宣言はその後、法的拘束力を持つ国際人権規約(1966年)等の国際人権条約へと発展した。

 「日本国民」は次の不利益を被っている可能性はある。

 ①「「人間」になるための教育」(人権教育)を受けられなかった。

 ②「人権の相互尊重」が成立しない状況で生きている。

 責任の所在の階層構造は以下の通り。

 ①内閣・・・国際人権法上の最終的責任主体。

 ②中央行政(文科省)・・・政策形成・制度設計の責任主体。

 ③地方行政(教育委員会)・・・義務教育の直接責任主体。

 ④学校法人(私立)・・・教育提供の第一次責任主体。

 「日本国民」が不利益を被っている場合、まずその当事者と不利益を与えている者の義務教育を担当した特定の自治体の当時の教育委員会の責任が問題になる。

 不利益を被っている「日本国民」は、他者に責任転嫁するのではなく、まず教育委員会の責任を追求する必要がある。

 私立学校の場合、責任は学校法人にある。従って、その場合は学校法人の責任を追及する必要がある。

 しかし、教育行政の最終責任は、文科省にある。

3.おわりに

 責任は教育委員会や学校法人、あるいは文部省に止まらない場合もある。国会のレベルに責任がある場合もある。国会の場合、責任は内閣にあり、「連帯」「責任」を取る必要がある(日本国憲法第66条)。この責任の所在も明確である。

 国会で制定された人権教育関連の法律等に問題があり、「日本国民」が不利益を被っている場合、他者に責任転嫁するのではなく、国民は当時の内閣の責任を追及する必要がある。

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