国際人権への日本の教育(学)界の応答ー「戦後教育学のリーダー」堀尾輝久の場合ー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議を採択し、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性、相互不可分性、相互依存性、相互関連性を(再)確認した。その後、国連は人権政策を展開した。日本政府もリアルタイムで応答した。

 では国際人権への日本の教育(学)界の応答とは? 「戦後教育学のリーダー」堀尾輝久の場合とは?

2.国際人権への「戦後教育学のリーダー」堀尾輝久のコミットー

 1962/1963/1971年段階では、国際人権への堀尾の関心は、射程には入っていたが、必ずしも明確ではなかった。

 1974年、堀尾が「専門調査委員」を務めた、梅根悟+教育制度検討委員会の報告書(『日本の教育改革を求めて』)が公表された。堀尾によれば、同報告書は実質的には堀尾が執筆したものである。

 同報告書は、「人権教育の徹底」を主張し、国際人権にもコミットした。

 世界人権宣言や国際人権初期訳、日本国憲法などを積極的に学習させる必要がある。

教育制度検討委員会+梅根悟編『日本の教育改革を求めて』勁草書房、1974年、p.443。

 1966年、国連は世界人源宣言を受けて法的拘束力がある国際人権規約を採択した。1979年、日本政府も同規約を批准した。そうすると堀尾は日本政府が批准する5年前に既に国際人権の教育を主張していたことが確認出来る。

 恐らく博士論文(1962年、東京大学)以降、堀尾は「子どもの権利」の思想も独自に展開した。

 1986年、堀尾は『子どもの権利とは何か―人権思想の発展のために―』(岩波書店)を出版した。

 1989年、国連は子どもの権利条約を採択した。堀尾は国連に先行して「子どもの権利」の思想を独自に展開していたことが確認出来る。

 1994年、日本政府は子どもの権利条約を批准した。

 国連が「人権教育のための国連の10年」を推進し日本政府も応答していた1998年、堀尾と河内徳子は『平和・人権・環境教育国際資料集』(青木書店)を編集して出版した。

 後に堀尾は当時、日本では人権教育が難しかったと次のように回想している。

 さらに、ユネスコ国際教育要項と書いたのは、国際的にはその問題がどう動いているのか、例えば、人権や平和の教育などはユネスコレベルでは当然のこととして強調もされているわけでしょ。かたや日本では、人権教育はむずかしい、平和教育というとなんとなく偏向教師に見られるような枠組みがつくられてきたわけだから、それに対する批判の視点というものを。国際的な視野も含めて僕らは持っていなくてはいけない。『教育国際資料集』(1998・青木)を作ったのもその頃です。

堀尾輝久「公開インタビュー 教育学研究者として教育現実といかに向き合ってきたか」、『研究室紀要』第40号、東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室、2014年7月、p.79。

 1999年、人権擁護推進審議会答申が出された。

1. はじめに  米ソ冷戦後の1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を確認し、1995年から「人権教育のためのの国連の10年」...

3.おわりに

 堀尾は1974年に国際人権へコミットした。恐らく当時としてはかなり早かった。堀尾の回想によれば、国連が「人権教育のための国連の10年」に取り組んでいた時期でも、日本では人権教育が困難だった。

 2005以降、国連は「人権教育のための世界計画」に取り組み、日本政府、特に外務省も積極的にコミットしている。

1.はじめに  1989年、米ソ冷戦が終結、1993年、国連は世界人権会議で「ウィーン宣言及び行動計画」を採択して、人権政策を展開し...

 しかし、現在(2026年)でも地方自治体レベルでは人権教育は「思いやり」「優しさ」の教育に変換され、普遍的価値としての人権の教育が出来ない状況が続いている。

1.はじめに  人権政策の展開による日本国内の自生的秩序への人権基準の適用は、人権基準を基礎とした場、“vulnerable gro...

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