国際人権に対する日本国内の「教育格差」論の位置ー解消の結末とは?ー

1.はじめに

 1993年、国連は世界人権会議で人権の普遍性を(再)確認し、その後人権政策を展開している。

1.はじめに  国際人権に対する国連の人権政策を人権教育政策を中心に説明する。 2.世界人権宣言(1948年)ー国際人権の「原...

 他方、日本国内には「教育格差」論が存在する。「教育格差」論の「教育」は国際人権の「教育」か? 「教育格差」の解消は、「受験地獄」の普遍化(平等化)か? ディストピアか?

2.検討の前提

 ①国際人権の「教育」と日本国内の<教育>との異同や差異。

 ②国内の法規範の教育機会の分配基準・・・義務教育以外、「能力」主義の平等。

 ③「格差」の定義・概念規定の欠如や客観的根拠の不明確さ・・・「不平等」と「格差」の異同の不明確。

3.「教育格差」論ー教育社会学者の松岡亮二の場合ー

(1)「教育格差」の定義ー最終学歴の格差ー

 人には無限の可能性がある。

 私はそう信じるし、一人ひとりが限りある時間の中で、どのような「生まれ」であってもあらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればよいと思う。なぜそのように考えるのか。それは、この社会には、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。この機会の多寡は最終学歴に繋がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。これは近年だけの話ではない。戦後日本社会には、程度の差こそあれ、いつだって「生まれ」による最終学歴の格差―教育格差はあった。

松岡亮二『教育格差―階層・地域・学歴―』ちくま新書、2019年、p.15。

 松岡は「教育格差」を「最終学歴の格差」と定義している。しかし、国際人権の「教育」と国内の<教育>の異同は明確にされていない。

(2)「教育格差」社会観ー「緩やかな身分射会」

 生まれ育った家庭と地域によって何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分射会」、それが日本だ。現行の教育制度は建前としての「平等」な機会を提供する一方、平均寿命が80歳を超える時代となっても、10代も半ばのうちに「身の程」を知らされる過程を内包している。

同上書、p.16。

4.「教育格差」解消の結末ー「受験地獄」の普遍化(平等化)ー

 もちろん、単に「良い」ことばかりではない。誰もが学習機会を与えられ、励まされ、自身の可能性を最大化すると、教育競争は激しくなるだろう。現在の大学数に変更がないまま今まで学校教育で低「能力」扱いを受け「制約感覚」を持ち「自発的」に学歴獲得競争から降りた低SES層が参入すれば、入試倍率は上がり「受験地獄」が実際的に普遍化する。根本的には有名高校・大学の定員数にしろ、人気企業の採用数にしろ、憧れの職業にしろ、社会的に「みんな」が欲しがるものの「椅子の数」はある程度決まっていて、だからこそわたしたちは教育制度に「選抜」を期待している。この席数は社会の変化に応じて増減を繰り返すが、全員が同じものを手にすることはない。希少性そのものだけで労働市場などにおける価値が上がってしまう以上、相対的な椅子の奪い合いはこれからも続くだろう。ただ、「みんな」が可能性を追求することで、社会の平均値が上がるだろうし、それにより新たな産業や職種の創出など椅子の種類や数を増やすことは出来るはずだ。

同上書、pp.314~315。

 引用文中の「SES」は、「socioeconomic status=社会経済的地位」であり、「経済的、文化的、社会的要素を統合的した地位」を意味する(同上書、p.81)。

5.バブル期日本の教育現実

1)教育学者の堀尾輝久の事実認識の場合(1989年)

 ヨーロッパにおいても一八七〇年代から今日まで、能力主義の原理がしだいに社会構成原理としてその比重をましてきています。能力主義の先輩国はアメリカですが、そこでは早くから学校制度は一元的に組織され、社会的(ソーシャル・)流動性(モビリティー)が高く、そのことがまた、能力主義が実現しているかどうかの一つの判定基準にもなっています。ソーシャル・モビリティーが高いということそれ自体は、社会の活気の現われとして積極的に評価されるべきですが、現代の問題(「能力による社会的選別と差別を容認する原理に転化するという問題」――引用者による注)は、実はその先にあると考えなければならないのです。

堀尾輝久『教育入門』岩波新書、1989年、p.49。

(2)東大進学者の「準神経症」問題

1.はじめに  冷戦終結後の1993年、国際は世界人権会議で人権の普遍性を(再)確認し、その後人権政策を展開している。 ...
1.はじめに  「能力主義(公正)」的移動、特に社会空間上の「能力主義(公正)」的移動には、国際人権の「教育」が前提にする「ヒューマ...

6.おわりに

 「教育格差」論のその定義とは、一つには最終学歴の差異である。その定義はある程度の根拠や理由があると考えられる。

 しかし、日本の学校で提供されている<教育>と国際人権の「教育」との異同は、明らかにされていない。

 もし国際人権の「教育」と国内の<教育>が一致しない場合、最終学歴の差異は国際人権の「教育」の「不平等」ではない。

1.はじめに  1993年、国連は世界人権会議を採択し、「ウィーン宣言及び行動計画」を採択し、人権の普遍性、相互不可分性、相互依存性...

 恐らく国連のSDGsのターゲットの一つである「教育の質の保障」は、国際人権の「教育」の平等である。その場合、日本の「教育格差」が解消されても、国際人権の「教育」は実現されないし、SDGsの課題もクリアすることは出来ない。

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